メモリー.




ガランとした教室は、足音がいつもより響くような気がした。

黒板の落書き、軽く並ぶありがとうや寂しいという文字の集まり。浮かれた雰囲気はあるのに、誰の私物もない、掲示物すらまっさらになった部屋の中は、慣れ親しんだもののはずだが、知らない場所みたいに思える。

そんな中で、窓際の後ろから三番目の席。

よく目線をやっていたそこに、導かれるように座った。

「低い。」

俺のよりも、低い椅子と机は、窮屈だった。身長差があるから、仕方ない。足を行儀悪く伸ばして、頬杖をつく。苗字なら、絶対にしない姿勢だ。
綺麗に揃えられた足と、座ると見える膝小僧が、なんか好きだったから、よく覚えてる。

窓の外には、グラウンドが見えた。
卒業生が、わちゃわちゃと写真を撮り合ったり、談笑をしている。部活での集まりまで、あともう少し時間がある。その少しの時間を、こうやって苗字の席に座って、感傷に浸って過ごすなんて、俺らしくない。きもいなって自覚はあるけど、苗字の見てた景色を、俺も見てみたかった。

「…とか、ダサすぎる。」

マネージャーとして、三年間そばにいた。
人の世話をやくとか物好きだと思ってた。自分のことみたいに、俺らのことに一喜一憂して。選手に負けないくらいの熱量で、でもどこか一歩引いているいじらしさもあった。

ーーいつのまにか。

部活の時だけ、縛られる髪が好きだった。スコアを書く横顔が好きだった。笑うと丸くなる頬が、汗だくになって体育館を駆ける姿が。

けど、同じように苗字を好きだと思ってるやつは、当たり前のようにいた。
気がついた時には、人のモノで。手を出すことはできなかった。
ただ俺にできたのは、ぼんやりと苗字のことを眺めて、かわいいなって思うことくらいだった。

「角名、ここにおったん?」

「…まだ、部活の集まりの時間じゃないでしょ、どうしたの?」

「角名が居らんなって思って。教室の方に行ったって聞いて、なんとなく。」

卒業式ということで、少し髪を巻いたんだろう。いつもとはちょっと違う雰囲気が、やっぱりかわいい。

「そこ、あたしの席やん。角名が座ると窮屈そうやな。」

「あんまりにもちっちゃいから、ちょっとウケて座っちゃった。」

「喧嘩売ってる?」

「今ならお買い得だよ。」

なんやねん!といいながら、苗字が一つ前の席の椅子を引いた。横向きに腰掛けて、俺の方に向いてくれる。近くにいると、薄く化粧をしてるのに気がついた。
「苗字さ、ピンクとか似合うんじゃない。」

「なに、化粧?」

「うん。目のとことか。今のも似合ってるけど。」

「ありがと…参考にする。」

苗字は、指でくるくると髪の毛を遊びながら、はにかんだ。その表情は、大人っぽさのなかに幼さを残している。これから、どんどん変わっていくんだろうな。見た目も、中身も。卒業したら、今までみたいに毎日顔を合わせることはできない。大人になっていく苗字を、俺は知ることなく過ごしていく。

「あのさ」

言うなら、もう、今しかない。
もう、言えなくなってしまう。別に言う必要なんて一ミリも無いのに、何も言わずに卒業してしまうのは、なんか勿体ない気がした。

目を合わせることができなくて、視線が勝手に落ちていく。
ピタ、と止まったのは、ブレザーのボタンのところだった。
二つのうち、一つがなくなっている。

「ボタン、」

「あ、これ?…彼氏と交換してん。ほら、第二ボタンってあるやん?ブレザーやとちゃうかなって思ったんやけど…なんか、憧れで。」

喉が上下して、口にしようと思っていた言葉は、するすると滑り落ちていく。もうこの想いは言えない。元から、言う必要はなかったんだ。

「いいじゃん。卒業しても、仲良くしなよ。俺に愚痴いってないでさ。」

「その説は……」

「まぁ、仲良い証拠なんだろうけど。」

「大学なって、バイトし始めたら奢る!これまで愚痴聞いてもらった分!」

「いいよ、そんなの。」

卒業して、俺と会う理由なんて、あんたには無いじゃん。部活で集まることがあっても、二人で会う理由は、がらんどうの教室の、どこを探しても見つからない。
ここで、今過ごしているこの時間を、密かに大切に思っているのは俺だけだ。


ーーなんて、思ってる時期があった。


「倫太郎、何笑っとんの?」

「ん?別に。」

「笑ってたやん!なに?なんかあった?」

不貞腐れてた高校三年生の俺に、言ってあげたい。腕の中におさまる名前の可愛さは、すごいよって。俺に会いに、わざわざ新幹線で来てくれるんだよって。会いたいって、ただそれだけの理由で。

「あのさ」

「うん?」

「好きだよ。」

あの時は言えなかった言葉を口にすれば、名前が嬉しそうに笑ってくれる。

換気のために開けた窓から、春の風が運ばれてくる。頬を撫でたそれは、柔らかい甘さを、二人の間に残していった。






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