プライド.
苗字を出迎えて、後ろから抱きつくと微かに香る香水の匂い。俺の元にこの香りが戻ってきた。
「なぁ、角名。」
「なに?」
「…はよ、ベットいこ?」
は? いつも添い寝はしているけれど、こんなに性急に誘われたのは初めてで軽く意識が飛びそうになる。
「っ…なに?どうしたの?」
俺の問いに苗字は答えない。 触れ合っている指先が微かに震えているのを感じて、心の中で舌打ちをした。 首筋に啄むようなキスを落として、ベットへと手を引く。
「…あいつとは、どうなったわけ?」
振られでもした? そんで、都合の良い男に慰めてもらいにきた?
「そんなんええやろ。なぁ、キスして?」
「ちょ、」
キスして、なんてねだった癖して、苗字自分から俺の唇を奪った。 今までキスすらも許さなかった苗字が、慣れたように舌まで入れてきやがって。 ふざけんな。 苗字を押さえつけるように体重をかけて、舌をより深くまでねじ込む。ざらりと表面をなぞれってやれば、苗字の鼻から漏れる声。
「ん、…っ、っはぁ、」
身体を跳ねせる苗字に、俺の身体は簡単に欲情する。 何度も唇を重ねて、じゃれあいながら時を計らう。
「今日、なんで会いに来てくれたの?」
微かに期待を孕んだ目で、苗字をみつめる。 頼むから、あいつじゃなくて俺を選んだといってくれ。
「…なぁ、私のこと抱いてくれへん?」
「本気で言ってる?」
今まで服に隠れた素肌には指一本触れられなかった。 それが、こんなにも簡単に。 躊躇しているのが悟られないように、意識して雑に触れた。
「唇、噛むなよ。声、抑えんな。」
「ひぅ、あ…いや、や…っ」
矯声の間に、俺は苗字の目を見る。 けれど、目はあっているのに交わらない感覚がした。 苗字はじわりと涙を下瞼に滲ませ、溢れさせる。 誰を想って、流した涙なのかなんて明白で。
「…ねぇ、泣かれたらやりづらいんだけど」
「え、」
「何で泣くの?」
あいつに振られたから? 触れているのは俺なのに、まだあいつを好きでいるのか。
「なんでって…」
言葉に詰まる苗字に、心が冷めていく。
「あいつの顔でもチラついた?」
「ちゃうよ、なぁ、角名」
「なに?」
「抱いて、なんや知らんけど涙止まらんねん。気にせんでええからっ、」
ペットボトルの水を持つ指先は、力がこもっているのか白くなっていた。 今抱いたとして、きっと苗字は手に入らない。 それどころか、後悔するのは苗字だ。
「俺が無理なんだって。ほら、飲んだら帰りな。」
「やだっ、!」
プライドを折って、自分の心の内の柔らかくて痛いところを曝け出す。
「ほんとにやめろって言われても、止まれる自信ねぇから…帰って。」
部屋から出て行く背中を呆然と眺めて、自嘲の笑みが溢れた。
据え膳を出されても、苗字に嫌われるのはきつい。 告白すらできずに、ずるずると卑怯な手口で傍にいようとしているくらいだ。 抱いたらお前が離れて行きそうで怖かった、なんて本音をぐっと喉の奥に押し込む。
「あいつじゃなくて、俺を好きになって」とか。 「苗字のことが好きだ」とか。 なんでもいいから、最初から苗字への気持ちを口にしておけば違っていたのかもしれない。
「…おせぇよ、馬鹿。」
今更何を後悔したって遅い。 もう、都合のいい相手にもなれなくなった。 淡くベッドに残る香水の香りを嗅いで、溜息を吐く。
もう会えないかもしれない。 せめてこの香りだけでも消えなければいいのに。
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