ボタン.
よく来ているのに、いつもより敷居が高く感じる。 呼び鈴を鳴らすのに、躊躇するのはいつものこと。 それでも一度ボタンに触れれば、そのまま力をほんの少し入れるだけ。 それが、今日は中々できない。
「…何してんの?」
ガチャリと薄く開いたドアに身体を跳ねさせた私を見て、角名は目を細めて笑った。
「入んなよ。」
ワンルームの部屋へと続く短い廊下を歩いて、すぐ。 後ろから抱きしめられた。 肩に心地いい重さがのしかかって、柔らかい髪が首筋に触れる。くすぐったいやんか…と身を捩ると、ぐりぐりと頭を押し付けられた。
「…機嫌ええな、どないしたん?」
「来てくれてうれしーんだよ。かわいい所あるでしょ?」
「あほちゃう…」
きゅ、と高鳴ってしまう心臓…アホは私や。 他の女にも、こうやって言うてるんやろうか。 他の女にも、甘ったるい台詞を吐いて、優しく包み込むように抱き締めるん?
「なぁ、角名。」
「なに?」
「…はよ、ベットいこ?」
「っ…なに?どうしたの?」
どうしたも何も、いっつも添い寝してるやんか。 色々言うんも面倒くさくなって、私を抱きしめる腕にそっと触れ、指先に軽く力を込める。 角名は、私の首筋に啄むようなキスを落として、ベットへと誘った。
「…あいつとは、どうなったわけ?」
あいつ、というのが彼氏を指しとるのは明白。あぁ、もう元彼やったっけ? その問いはスルーして、私に覆い被さる角名の首に腕を回した。
「そんなんええやろ。なぁ、キスして?」
「ちょ、」
キスしてとねだったくせに、次の言葉が紡がれるのを待たずに、角名の唇を塞いだ。 急のことに驚いたのか、空いたままやった口に舌を忍ばせる。角名とキスをするのは初めてで。ましてや、こんな深いのは…味って人によってちゃうもんなんやな、と頭の片隅で思う。少ししたら、ぎこちなく絡められた舌先。 かわええなぁ、と悦に浸った瞬間に、一気に形成を逆転されて、息を漏らすようになったんは、私のほうやった。
「ん、…っ、っはぁ、」
そろそろ脳が酸素を求め始めたころに解放されて、静かな部屋に吐息だけが響く。
「…自分から煽った癖に、ギブアップすんなよ」
「スポーツマンとは体力ちゃうやん、っ」
ちゃうやんか、と言おうとした言葉はいとも簡単に遮られて。胸板を叩くと、ちゅっというリップ音と共に離れて。息継ぎだというように、またくちびるを重ねられる。それを何度も繰り返していく内に、頭がぼんやりとしてきて、酸素が足りんのやと思った。
「ッハァ、っハッ、ハァー…」
「はは、肺活量鍛えたほうがいいんじゃない?」
「…うっさい。」
「ねぇ、苗字。」
切長の目が、私の目を捉える。 艶やかな涙の膜で覆われた、透明度の高い角名の目は、こうやって寝転んだ時にしか見えへん。
「今日、なんで会いに来てくれたの?」
今日…その言葉は、「彼氏と会うはずの日」という意味をしとるんやと思う。 艶っぽく笑ってみせて、角名の頬に触れた。
「…なぁ、私のこと抱いてくれへん?」
「本気で言ってる?」
するり、角名の大きな平たい手が、私の背中を撫でる。指紋の一つすらも感じ取って、角名の全部を記憶したい。 そしたら、離れても大丈夫なはず。
くっと、ブラジャーを引っ張られて、パチリという音とともに開放感を感じた。片手で外せるなんて、慣れたもんやなと思う。…外し方を教えた女は、どんだけ居るんやろ。
角名が私に触れる指先は雑で、激しい。求められている錯覚に陥ってしまうほどに。…その癖、優しいやさしいキスをする。口付けをする時に随分と可愛い音を立てることを、私の他に誰が知っとるんやろ。
「唇、噛むなよ。声、抑えんな。」
「ひぅ、あ…いや、や…っ」
嫌や。他の女なんか見んとって。 角名の全部が欲しいなんて、身勝手なんはわかっとるから。
「…ねぇ、泣かれたらやりづらいんだけど」
「え、」
気がついたら、堰を切ったように。 頬を滑り落ちていく雫が、痛い。
「何で泣くの?」
「なんでって…」
言葉に詰まると、角名は立ち上がって冷蔵庫から水を取り出した。 蓋を一捻りし、私に差し出す。
「あいつの顔でもチラついた?」
あいつ、というのが元彼を指しているのがわかって、角名の無機質な笑みが怖い。 飲みなよ、と指差されたペットボトルを傾けて、喉に押し込む。毒を飲むときってこんな感じなんやろうか。
「ちゃうよ、なぁ、角名」
「なに?」
「抱いて、なんや知らんけど涙止まらんねん。気にせんでええからっ、」
「俺が無理なんだって。ほら、飲んだら帰りな。」
「やだっ、!」
「ほんとにやめろって言われても、止まれる自信ねぇから…帰って。」
明らかな拒絶を食らって、芯が冷える。 乱れた服もうまく整えることができずに、荷物を持って部屋を飛び出した。
エレベーターの中、服のボタンを留める手が震える。掛け違えたボタンは、もう一度留め直せばいい。けれど。 角名と私の掛け違えは、もう正すことはできないような気がした。
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