スフィンクスが眠る.
名前は、目を覚さんまま。 閉じられた目の下には隈が出来とって、それに触れると俺の不甲斐なさが指先から伝うように滲む。
あの日。風呂上りに寝室に入って、冷えたシーツに名前が居らんことに気がついた。 電話をかけても出えへんし、何より黙って家を出る奴とちゃう。俺はコートを羽織ることさえ忘れて家を駆け出した。
普段から、走ることを習慣にしといて良かった。 足を進めながら、ごちゃついた思考の隅でそう思う。 歩道橋の近く、人溜りがあるところ。 人にぶつからんように足を止めて、人溜りの中心を見た。 そこに居たのは、コンクリートの上に横たわった名前 ーー正直そっからの記憶は曖昧。
脳震盪で気を失っている、打撲や捻挫、骨へのヒビ…命に関わるものではないと医者に説明を受けたご両親から聞いて、ひどく安堵したんは覚えている。
「侑くん、これから練習でしょ?面会時間もそろそろ終わるから…」
「すんません、長居してもうて。」
「いいのよ。過労気味だったみたいで、中々起きないもんだからね…。侑くんも、繁忙期だったんでしょ?バレーもあるんだから、夜はしっかり体休めてね」
「ありがとうございます、」
練習に行って、一人。 誰もいない頂上に向けてトスを上げる。 監督とキャプテンには事情を話して、スパイカーへのトスは上げずにいる。
指先から離れるボールの感触が、鈍い。 こんな半端なトスで、スパイカーの調子狂わすんは絶対にあかん。それだけは俺の意地。 トスを上げれない分、サーブの精度を上げること、リードブロックの練習…やれる事はある。 バレーの事を考えていれば、その時だけでも名前の事が頭の隅に置けた。
「侑、大丈夫か。」
明暗さんに尋ねられた。
「…なにが」
「いや、その…恋人のこと。」
「まだ、目覚めてません。」
「そうか…練習、休んでもええんやで?」
休む。そうか、そういう選択肢も普通はあるんや。 バレーと彼女。 名前と付き合う前の彼女に、言われた事がある。 「私とバレー、どっちが大事なん?」なんて下らん質問。バレーと言えば案の定振られた。
なんかの雑談の流れで、名前にこの話をした事がある。お前はそういう事聞かへんよなと俺が笑うと、そりゃあね…と名前は目を逸らした。
「そんなわかりきってる事聞いて、どうするんだろうね。」
その言葉を聞いて、やってもうたと思った。 遠回しに俺はお前よりもバレーが大事やと言ったようなもんやと。 そんな人でなしは、名前には釣り合わない。 それでも側に居りたいなんて、ただの俺のエゴ。 いつからかなんて分からへんけど、多分この事がきっかけで、名前と居る時に後ろめたい気持ちが付き纏うようになった。
そんなことを思い出して、乾いた笑いが出る。
「俺はバレーしかない人でなしなんで、」
そう言えば、明暗さんは渋い顔をしてため息を一つ。
「…あほ、強がりなや。なんかあったら言え、お前のシケた顔見とるとやり辛くて敵わん」
フッフ、明暗さん優しいなぁ…と返して、また空中にボールを放った。
練習が終わって、家に帰っても。 名前の生活音が一切無いことに慣れへん。 生活に必要なことを淡々と済ませて、ベッドに沈めば、二人で寝られる場所は広くて虚しい。 それでも体は疲れが溜まっているようで、目を閉じて呼吸を繰り返せば、ゆっくりと意識が落ちていく。
「宮君、起きてー」 「…は、」
揺すられた感覚に目を覚ますと、目の前にあったのは名前の顔。
「名前…」 「ぇ、寝ぼけてるの?大丈夫?」
勢いよく体を起こすと、周囲に違和感。 教室?ほんで、暑い…窓の外から降り注ぐ日差しは冬のものじゃ無い。 自分の足元は上履きで…目の前の名前は高校んときの制服。
「宮君、今日部活無いんでしょ?…一緒帰ろうって約束してくれたの、忘れた?」
「お、ぼえとる…」
「…忘れてたやつじゃん、」
「覚えとる!…その、寝ぼけてもうて…」
ほんとー?と言いながらクスクスと笑う頬は丸っこくて、幼い。あぁ、夢か…と納得して、夢なら夢で楽しめばええかと立ち上がった。
「ほな、帰ろか」
いつものように手を取れば、名前は軽く体を跳ねさせて驚いたように目を丸くする。
「ふ、かわい」
「…宮君、よくそうやって言ってくれるけど…その、感性独特だよね、」
拗ねたような口調を作ってる癖に、顔は赤いもんやから、つい笑ってしまう。 はにかんでいる口元を見て、正直すぎるやろと心の中でツッコミを入れる。
「そんなこと無いやろ、普通やフツー。」
なんや、最近こんな顔見てへんかったな。 かわいいとか、好きとか。最後にそういう気持ちを伝えたのは、いつやった? 高校んときは、よく言っていた方やと思う。 名前は、自分から告白したほんまに好きになった子やったから。
「…好きや」
後ろめたさを感じずに、ただ思った時に無責任にそう言えていた。 なんで、変えてもうたんやろ。 名前が真っ赤になった顔ではにかんで、口を開いた。
ーーー「…は、都合の悪い夢やな、」 返事を聞けないまま、目を覚ました体に笑ってしまう。夢なら夢でええから、せめて良い思いさせてくれ…とごちた所で、一人の部屋。誰からの返事も返ってこなかった。
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