時の果て.
目を開ければ、そこにはーー
侑は居なかった。 白んだ無機質な天井と、見覚えのない空間。 独特な、清潔感を形にしたような匂いが漂う。
「…ここ、」
どこ? 横たわっていた体、おそらくベッドの上に居る。 軽く体を起こしてみれば、ここがどこかはすぐに分かった。
「病院…」
意識がはっきりとしてきて、体の痛みに顔を顰めた。 打ち身と、捻挫…かな。 軋むような痛みもして、体が思うように動かない。 やっとのことで、手を伸ばしてナースコールを押せた。
検査や問診を受けているうちに、ここが現在だとわかった。大人になって、侑と同棲をして。侑の言葉に勝手に傷ついて、逃げていた現在。 お医者さんの言う所には、私は一週間もの間目を覚さなかったらしい。幸いなことに頭は打っておらず、原因不明だとのこと。検査をしたところ、眠っているようだということで、様子を見ていたらしい。 捻挫や打撲、ヒビなどの怪我について説明された。
「眠ってた、のか…」
私が過去に飛んだような気になっていたのは、夢だったということ? それにしてはリアルな感覚で、鮮明な体験だった。
「…名前、よかった…!!」
連絡を受けて来た母は、心底安心した顔をしていて。 心配をかけてしまった事を痛感する。 ごめんね、と言うと母は、もう!!と怒ったような口調を作りながらも目に涙を浮かべ、笑っていた。
「名前、あなた何で夜に一人で出ていったの?」
ひとしきり私の無事を確認し終えた母は、私に尋ねた。 その質問に思わず、ドキリとする。 家出しようとしていました…なんて、言えない。 だって、きっと侑に対しての印象が悪くなるだろうし、父の方が黙っていないだろう。
「…期間限定のアイス、食べたくなっちゃって、」
夜中に急にアイスが食べたくなった、なんてありきたりな、心配し損な返事をしておく。 母は呆れた…と空いた口が塞がらないみたいで。
「侑くんには連絡しておいたから。今日は試合だから来れないみたいだけど…明日の朝来るって。」
「…そっか、」
「今日一応入院して、異常無かったら帰れるらしいから。侑くんに迎えにきてもらいなさいね」
じゃあお母さん帰るからね、と母を見送りながら、頭に浮かぶのは侑のことだった。
明日、侑に会う。
ふに、と自分の唇を触れてみて、夢だったのかな…と確かめるように記憶を探る。 夢だったんだろう、気を失っていたんだし。 …それでも、なんだか夢じゃないような気がして。 触れるだけのキスは、あまりにも久しぶりの感覚だった。 大人になってしまった私たちは、触れるだけのキスにあんなに甘やかな余韻を残せない。 もうキスくらいには慣れてしまって、相手がそばにいる事さえも当たり前になってしまっていた。
侑は、私が居なかった間をどういう気持ちで過ごしたんだろう…と考えて、たった一週間だったと思い直す。
明日、侑に会って私はどうすればいいんだろう。
考えていても、徐々に瞼が落ちてくる。 検査や慣れない空間から来る疲労からか、また私は簡単に意識を手放してしまうのだった。
「…名前」
遠くから呼ばれたような、そんな感覚に意識が引っ張られた。 重い瞼をこじ開けると、白っぽい金髪が目に入る。
「あつむ、」
「迎えきた」
「うん」
検査結果とか、今後の怪我の治療について侑と一緒に説明を受けて、病院を出たのは昼過ぎだった。 侑は私に何かを言う訳でもなく、私も侑に何を言っていいかわからなくて、あまり話さないまま帰路に着く。
「…俺、昼から仕事やから。練習もあるし、帰り遅なると思う。」
「わかった、」
「こんままサムのとこ行くし、夕過ぎに送ってもらえるように頼んどるから。」
「うん、ありがとう…」
仕事と練習。 社会人でもあり、バレーボーラーな侑に対して、私を優先してとは言えなかった。
治君のお店に着いて、店の奥の部屋へと案内される。 侑が出て行って、堰が切れたように涙が出た。
俺の知らんとこで泣かんといてと言われても、やっぱり私は侑の前では泣けない。
あまりにも甘やかだった夢は、現実をまるで酷いもののように仕立て上げる。近いようですっかり離れきってしまった距離を、突きつけられたような気がして。
目が覚める前に侑が愛しんでくれた指先には、包帯が巻かれている。 落ちた時に手をついたのか、所々欠けた爪や擦り切れた傷は物凄く惨めに見えた。
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