おはようさん.
「おはようさん。…この時間は珍しいな。」
「北、おはよ。」
今日はちゃんと北に会えた。 靴を履き替えながら挨拶を交わせば、北が軽く微笑む。朝練後だからか、少し汗ばんだ前髪のせいでいつもよりも男の子っぽい。
「名前さん、おはようございます。」
「ぁ、おはよう…」
後ろから、角名君が挨拶をしてくれたけれど…慣れない。基本的に名前で呼ぶのは女の子だけだし、ここ2、3日で話すようになった後輩という間柄。名前さん、という呼称がなんだか恥ずかしい。
「今日は図書室、行きますか?」
「いや…今日は大丈夫、かな。」
そう言えば、角名君が三白眼を細めて、じっとこちらを見据える。
「り、倫君、は?」
「俺は名前さんが行かないなら、いいです。」
「そっか…」
じゃあ、失礼します。と角名君が去っていく。 その背中が遠くなった頃、北が口を開いた。
「…仲、ええな。」
「そうかな…?最近、知り合って…」
「そうか。」
少し、勇気を出して逸らしていた目を北へと向ける。 その顔はいつもと変わりなく、仏頂面…というかなんというか。動揺している様子なんてなかった。 そのまま、二人並んで教室へと向かう。
その中で、私は侑君が言っていた”ええこと”について思い出していた。
「…んで、俺ええ事思いついたんやけど!」
「うわ、もう嫌な予感しかしない…」
ええこと、とは。 思いっきり顔を歪める角名君に、私も少しの緊張感が走る。なんなんだろう…?
「北さんの彼女さんは、なんで不満言いづらいん?」
「…え、あぁ、私は北から不満とか言われたことが無いから、かなぁ。北は、相手に変わってもらうよりも自分の許容範囲を広げたらいいって考える人だし…」
「嘘やっ!北さん俺らにちゃんとせぇってめちゃくちゃ言いますよ!?」
「それは、自分のためにじゃなくて、俺らのためにでしょ。」
冷静に角名君が突っ込む。話逸れてる、という指摘に、侑君は私に向き直った。
「ほんなら、北さんから不満を言わせれば解決するんやないかと思って。北さんも男や!ヤキモチの一個や二個妬きますよ!」
侑君曰く、北さんヤキモチ大作戦!…らしい。 具体的に聞けば、角名君と私が仲良さそうなシーンを北に見せつける…という…はっきり言ってしまえば、しょうもない、ええこと。 何故か、角名君は面白がって協力してくれているけれど…。
「どうしたん?」
「いや、別に…」
じっと様子を伺ってみても、北は何も変わらない。 計画倒れになりそうな作戦の事を思うと、ため息が出そうだ。
「名字、」
「え、」
後頭部に、北の手が回った。 引き寄せられて、鼻先がきっちりと形良く結ばれたネクタイの結び目にぶつかる。 清潔な柔軟剤の香りに混じった、汗の匂いとほんのりとした温かさ。
「…すまん、後ろから人来とったから。」
廊下は狭くは無いといえども、稲荷崎は生徒数が多い。今は朝練を終えた部活動生と、電車通学の生徒で比較的賑わう時間帯だ。 他の生徒とぶつかりそうになったのを、避けてくれたんだろう。
いきなり過ぎて心臓の鼓動がぐっと早くなる。 北の様子は全然変わり無くて、自分だけの動揺が悔しい。私ばっかり、ヤキモチを焼くのも、北の一挙一動でこんなに心を揺さぶられるのも。私ばっかりだ。
北のシャツの袖を引いてみる。 軽くひっぱられたのに気がついた北が歩みを止めた。
「お、」
振り向いた北を見て、その淡い色をした瞳に自分が映っていることを確認する。
「…?」
「いや、お礼言い忘れたから。…ありがとう。」
「おん。」
袖から手を離すと、北はふふと柔らかく笑う。
「名字のそういうとこ、ええな。」
なんとなく、侑君考案の大作戦が後ろめたくなった朝だった。
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