小学五年生の春、私と私の家族は東京へ引っ越してきた。
今でも住んでいるその家の、隣には私と同い年の男の子が住んでいる。
名前は赤葦京治くんといって、背が高くてバレー部で……私の友達とかにはかっこいいって人気の人だ。
よく「家が隣同士なんて羨ましい」と言われるけれど、私はそんなふうに思ったことはない。
だって、京治くんは私にだけひどく冷たい。
学校で見かける京治くんは男子にも女子にも優しくて人気者なのに、私とふたりきりのときはいつも怖いカオをしてめんどくさそうに溜息をつくのだ。
その理由は確かに私にあるんだけれど、それにしても表の顔と裏の顔の差が激しすぎると思うのだ。
……京治くんのことをすごく悪く言えば、心が狭いし短気だし器が小さい。頑張って良く言うと世話焼きだ。こっちとしてはまったく、ありがた迷惑な話だけど。
――そんなことを考えながら、とりあえず私は目の前の京治くんにごめんなさいと口を動かした。
予想通り京治くんは盛大な溜息をつく。お、今さりげなく舌打ちも聞こえたぞ。
「あのさ、俺朝練あるって何回言ったら分かるわけ?お前は一回寝ると全部忘れるんだ?」
「ご、ごめんってさっきから言ってる……っていうか、もう私のこと置いてっていいよ」
ただいま朝の6時前。……本当は、京治くんの朝練があるから5時半には家を出なきゃいけなかった。
それに対しては本当に申し訳ないと思っている。
それに、昔から朝の弱い私が今まで遅刻しないですんでいるのは京治くんのおかげだ。
ここに引っ越してきた五年生の春から、京治くんは毎日私と学校に行ってくれている。
きっかけは些細なことだった。昔から鈍くさくてトロかった私を心配して、私のお母さんが京治くんに言ったのだ。この子をよろしくね、って。
その言葉に京治くんが頷いたのが始まり。それを目の前の男は律儀にずっと守ってくれていた。
「なまえを置いていきたいのは山々だけど、おばさんに頼まれてるから」
不機嫌な声で京治くんが言う。最初から京治くんは私に対してずっとこうだ。
小学校に通っているときだって、何もないところで転んで泣きじゃくる私を見て顔を歪めたし、中学のときも雨の日に車に水をはねられてビショビショになった私にこれでもかというほど眉をひそめた。というかこれは私じゃなくて車が悪いのに、京治くんは私に溜息をついた。
「う、うちのお母さんが頼んだのって小学生のときだよ。もう一人でも大丈夫だって」
「へぇ、そう言って昨日駅で定期落としたの誰だよ」
「……確かに落としたけど!そんなの、初めてだったし」
「初めてって、今までに財布もスマホも落としてんだろ」
あー……もうこれ完全に遅刻だ、とスマホの画面を見て呟く京治くんに、私は今日も震えながら平謝りだ。
「ごめん……木兎さんとかには私から謝るから、」
「行かなくていいよ。どうせ三年の教室行っても何かやらかすだろうし」
「だっ大丈夫だよ!そんな、人をバカみたいに言わないで欲しいんだけど」
「みたいじゃなくてバカだから。ほら、さっさと行くよ」
そう言ってめんどくさそうに京治くんは私を一瞥して歩き始めた。
その数歩後ろを、私がちょこちょこと追いかけるようにしてついていく。
その様子を木兎さんはいつも親子みたいだと言うけれど、そんな生易しいものではないと思う。
これじゃあ主人と犬だ。……そんなことは絶対に言えないけれど。
こっちは必死についていっているのに京治くんが話しかけるから、私はいつもその両方に必死になって歩く。
気づけば駅についていて、電車に乗っているというのも日常茶飯事だった。
「……あっ」
「……なに、」
私が声を上げると、京治くんが苦い顔をしてこっちに振り向く。
これはもう、私が何かやらかしたんだと気づいている顔だ。
京治くんから冷たく注がれる視線に言葉を一瞬詰まらせて、私は重い口を開く。
「今日までに提出のプリント……机の上に忘れてきちゃった」
「カバンの中、一応確認してみたら?」
今にも溜息をつきそうな京治くんは、私の腕をひいて近くのベンチに座らせた。
立ったまま私を見下ろす京治くんが怖くて、急いで私はカバンを開ける。
だけど、ファイルの中を確認しても必要なプリントは見つからなかった。
ここで、京治くんが溜息をつく。その音にびくりと肩を揺らした。
今日は、いつにも増して京治くんに迷惑をかける日だ。
さすがに、ここで一緒に家まで戻ってもらうのは申し訳なさ過ぎる。そう思って私は京治くんに言った。
「わ、私取りに行かなきゃだから、京治くんは先に学校行ってて!」
「俺も戻るよ」
「いや、それは悪いから……!」
「いいから」
「だ、だめだって!」
そう小さく叫んで、私はカバンを掴んで走り出す。
学校で京治くんになんと言われようと構わない、今回私は初めて一人で登校しようと思う。
初めておつかいにいく子どものような気持ちで、私は家までの道を急いで戻ることにした。
家に帰って机の上からプリントをとる。それを丁寧にファイルに入れてカバンの中にしまった。
ちらりと時計を見ると、まだ6時25分だった。
45分の電車に乗ればギリギリ間に合うって、こないだ友達が言ってたから……よし、遅刻はしなくて済みそうだ。
そんなことを考えながら家を飛び出して、駅まで走る。
そして駅に着いたのが6時40分。
既にホームについている電車に乗りこむと、ちょうど通勤ラッシュなのかいつもより多くの人がいて、私は流れる人の波によって車両の端に追いやられた。
しばらくして電車が動き出すと、いつもは京治くんと席に座っていられたから平気だったけれど、電車の揺れと人波で私は気持ちが悪くなってくる。酔ってしまいそうだった。
なんとか足に力を入れて、外の景色を見ようと窓に目を向けた時、スカートの裾がぴらっとまくり上がる。
一瞬息が詰まって視線を下に戻そうとすると、太ももに冷たい手がぴたりとあてがわれた。
痴漢?
そう思うのと、その手が太ももをなで上げたのは同時だった。
ぞわりとしたものが背筋を駆け巡る。
触られたという嫌悪感よりも、どうしようという不安からくる恐怖の方が大きい。
やめてください、と声を張り上げようとしたのに喉が渇いてできなかった。
それを抵抗ナシと見なしたのか、痴漢であろうその手は無遠慮に私の身体を撫でる。
太ももの手がじわりじわりと上のほうに迫ってきて、私は軽くパニックになり目を瞑った。
びっしょりと手汗をかいているその手が気持ち悪い。
涙が出そうになったそのときだった。
「なにしてるんですか」
太ももにあった手が、離れる。
それと同時に聞こえた京治くんのドスの効いた声に、私はほっと胸を撫で下ろした。
でも、どうして京治くんがまだここに――と思ったのも束の間、痴漢さんは口を開く。
「どうして……今日は別々のはずじゃ、」
「……え?それってどういう意味――」
「なまえは黙ってろ。……アンタは警察に突き出されたくなかったら、二度とコイツに近づくな」
そう言って私の肩を掴んで自分のほうに引き寄せた京治くんは、痴漢さんを睨んだ。
その一連のできごとは周囲の人に筒抜けだったようで、突き刺さるような視線にぱっと私は顔を上げる。
それに痴漢さんも気づいたのか、さっと顔を青ざめさせるといそいそと別の車両に移っていった。
すると、周囲の視線も段々と離れていく。
そうしてから、私はおそるおそる京治くんに話しかけた。
「……ありがとう」
「別に。でもお願いだから、勝手に一人でどっか行かないで」
「う、うん。ごめんなさい」
そう言うと、京治くんの大きな手が私の手を握った。
素っ頓狂な声を上げると、京治くんは面倒そうに顔を顰めてから次の駅が目的地だと言う。
しばらくして駅に到着すると、京治くんは私と手を繋いだまま電車を降りた。
駅には同じ学校の制服もちらほらといて、私たちの姿は注目される。
「ちょ、ちょっと京治くん!手、離してよ!」
「……大丈夫だった?」
「何が?」
私が言うと、京治くんは呆れたように溜息をつく。
可哀想な目で私を見たあと、痴漢だよ、とイラついたように言った。
「あ、う、うん。だって京治くんが助けてくれたから」
「あっそ」
「えっ聞いといてなにそれ」
すると何が気に食わなかったのか、京治くんは私の手を握る手に力を込めた。
一回りも小さい私の手は悲鳴を上げる。
「痛い!」
涙目になって京治くんを見上げたとき、ふと昔のできごとを思い出した。
小学のときも、通学中何もないところで転んで泣きじゃくる私に顔を歪めながらも、おぶって一回家まで送ってくれたこと。
中学のときも、雨の日に車に水をはねられてビショビショになった私に眉をひそめながら、自分の上着を着せてくれたこと。そしてそのあと、保健室まで送ってくれたこと。
いつもいつも、表情は険しくて口も悪いけれど、それでも触れる手は優しくて大きかった。
忘れかけていた京治くんの本当の姿を思い出したような気がして、私の頬は自然と緩む。
校門のところで木兎さんたちバレー部の面々が、遅すぎる京治くんを心配して出迎えにきてくれていた。
行ってきなよ、と私がいうと京治くんは頷いて、するりと私の手を離した。
だけど少し行ったところでピタリと止まると、私の方を振り向いて口を開く。
「今日、帰れる?」
それは一緒にってことだろうか。私は首をかしげてから、ゆるゆると首を下に振る。
すると満足そうに口角を上げて、京治くんは校門のほうに駆けていった。
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