夏休みが終わり新学期になってしばらく経った頃から眠れない夜が続いていた。さすがに一週間も睡眠不足だと日常生活に支障が出るらしく、手のかかるあの主将からも「赤葦なんか変」と面と向かって言われてしまった。「何でもないですよ」とその時はごまかしたけれどあの人に分かるという事は他の部員たちには既にそう思われているのだろう。厄介だ、と息を吐いた。原因に心当たりはあるもののそれを素直に認めるのも難しく、かといって自然に解決出来る兆しは今の所ない。何より余計な事を何も考えずに眠りたい。困った末、気は進まないがどうしようもなく彼女に連絡を入れた。日付が変わり土曜日の午前二時。とても非常識な時間にも関わらず、三コール目で電話に出た彼女に「眠れなくて」と告げると向こう側でおかしそうに笑う声が聞こえた。「それならデートをしよう」
午前三時。家の前で待っていればヘッドライトが近づいてきて目の前で白いコペンが止まった。彼女が免許を取る前からどうしても乗りたいと貯め続けた資金で買った車。前後にある初心者マークがいつ見ても似合わない。運転席に座る彼女の手招きを見て息を吐いてから身体を思いきり屈めて乗り込んだ。
「……せまい」
「そりゃあそうだ」
面白そうに彼女は笑う。
「おおきな男の子をちいさい車に押し込めるのが好きでさ」
「変な性癖押し付けるのやめてくれませんか」
「無害なほうだよ」
笑った彼女は車を発進させ住宅街を静かに走り出した。狭く小さく車高も低い、しかもMTのこの車に初めて乗せられた時はまあこの人の趣味に改まって口は出すまいとは思ったけれど、自分が車を持つ時は広く運転しやすいヤツを買おうと心に決めた。初心者マークがまだ外せないわりに彼女の運転は危なっかしくないが周りからは同乗を敬遠されるらしい。「好んで乗るのは赤葦くらいだ」と彼女は言うが俺は好んだ覚えはない。
「どこに行くんですか」
「深夜のドライブデートと言ったら海に夜明けを見に行くものだよ」
「安い映画ですね」
「三流映画の方が美しい場合もあるさ」
滑らかにシフトチェンジする彼女は真正面を見たまま笑っている。その様子は高校の頃と変わらない。
二つ年上の彼女は俺が高校のバレー部に入った時すでに奔放な人で、マネージャーというよりも木兎さんとはまた違う意味で手のかかる面倒な先輩だった。作ったスポーツドリンクはなぜか非常に不味かったしモップがけもテーピングも異様にへたくそ。ただこの人は性格に似合わない美しい字を書いた。たまに当時の試合記録や部誌を読み返すと彼女の書いた何気ない文字に出くわす。それを見るたび、とっくに卒業した彼女がいつまでも居続けているような気がしてどうにも複雑な気分になる。
「みんな元気かい」
「まあ」
「それは何より」
彼女は何も聞いてこない。こんな普通ではない時間に連絡をしたにも関わらずいつものように接してくる。逆に気を遣われているんだろう。そういうことが出来る人だ。
「眠っていいからね」
「眠れないから連絡したんですよ」
「そうか」
「そっちは眠くないんですか」
「うん」
カーステレオからは彼女の好きな音楽が小さく流れる。住宅街から幹線道路に出ると灯りが一気に増えた。
「最近夜更かしばっかりですっかり夜型だよ」
「ちゃんと大学行ってますか」
「それがまだ休みなんだ。おそろしいね大学というものは」
へらりと他人事のように笑うが俺には大学の日程など分からないから「そうですか」としか返せなかった。
「まあだから」
カチカチとウインカーを上げて側道に入る。どうやら高速道路に乗るらしい。本気で海に行くつもりのようだ。ミラーで後ろを確認しながら彼女は言う。
「いつでもデートに誘っておくれよ」
冗談のような口調で言ったその言葉が要するに「気にするな」という意味を含んでいる事には気づいているけれど。
「いやです」
「つれないなあ」
ポーン、と笑うようにETCが間抜けな音をあげた。
九月の明け方の海は人などいなくて、涼しい風が静かに吹いていた。着いてすぐ車の狭いトランクからシートと毛布を取り出した彼女は手際よくそれを広げ、俺を引っ付かんで一緒にぐるりと毛布に丸まった。
「あの」
「なに」
「苦しいんですけど」
「いやあ毛布ひとつしかないし赤葦に風邪ひかれても困るし」
へらりと笑う彼女はお互いに触れてる腕を何とも思っておらず「ぬくぬくだ」などと言っている。もう長年こういう事をされ続けているので今更どうとも思わないが、もし誰にでもやっているのならそれは止めてもらいたい。
「よく来るんですか」
「いいや」
「じゃあなんで」
「気分転換だよ」
「いつも同じじゃ芸がないだろう」と真っ直ぐ前を向き暗い海の水平線を見つめたまま彼女はそう言った。
「赤葦は分かりやすいから」
「そうですか」
「おまけに頭がいいのにおばかさん」
「失礼な」
「さみしがりで甘えべた」
反論する気も失せて溜め息を吐くとおかしそうに彼女は笑う。
「だから眠れない」
核心を突かれて黙るしかなかった。
「先回りして考えてしまったんだよね、その日の事」
彼女の言うその日が何を指すのか分かる。去年彼女たちがどんな顔でその日を終えたのかもよく覚えている。俺はまだ一年で、何も出来なかった事も。
「よく、あの選手は二年だから来年がありますとか聞くけれどあれは少し違うと思うんだ」
ざあざあと波音に似た音で彼女は静かに語る。
「個人ならまだしもチーム競技に来年なんてない。チームはいきもので、期間限定のいのちしか持っていない。来年までは生きられない。生きて死んで、なきがらは記録の中にしか残らない。一年も二年も関係なく一度のいのち。そういうものだ」
「ずいぶん詩的なこと言いますね」
「最近読書が趣味だと吹聴しているから」
「似合わないですよ」
「自覚はしている」
楽しそうな彼女の隣で深く息を吐く。昔の試合記録、彼女の美しい文字で書かれた今はいない人たちの名前。彼らがどんな人たちだったか、当時どんなチームだったかはもう記録の中にしか残っていない。今の一年たちは彼女の作るスポーツドリンクがどれほどに不味いかという事も壊滅的なモップがけやテーピングを目の当たりにする事もない。
もうすぐ今の三年もそうなるのかと不意に思ったら、眠れなくなった。
木兎さんを筆頭にあんな手のかかる強烈な印象をもつ人たちですら記録の中の文字だけになっていく。負けたらすぐに、勝ってもいずれ。それを考えてしまった。
「失礼なヤツですよね」
これからという時に終わった事を考えてしまった。三年がいなくなりあの騒がしい人たちを知らない人間が増えていく事を想像して勝手に寂しくなってしまった。こんな情けない話を誰かに言える訳もないし解決出来る事でもない。ただ眠れない真っ暗な部屋の中で去年彼女たちが引退と卒業した時の風景を繰り返し思い出していた。
「今の三年は赤葦に甘えてるからなあ、とくに木兎」
仕方がないことだと彼女はへにゃり笑った。
「きみは頭がいいおばかさんだからどうしても考えてしまうのだろうね」
かーわいいなあと言って頭を撫でようとしてきたその手をぺちんと叩くと彼女は口を尖らせて拗ねる。
「やっぱりかわいくない」
「結構です」
海の向こう、水平線が白々と明るくなってきた。もうすぐ日が昇る。一日が始まる。また一日が終わり「その日」へ緩やかに近づいていく。それが今は酷く恐ろしい。
「あの」
「うん」
「何で分かったんですか」
誰にも言うつもりはなかったし自分でも出来れば否定したかった内情をこの人はどうして知り得たのか。
「赤葦のことだからさ」
「真面目に答えてください」
「真面目だよ」
信用ないなあとぼやく隣の彼女をじっと見つめると困ったように笑ってから口を開く。
「去年わたしたちが去った時のきみの目を思い出したんだ」
「目ですか」
「赤葦の目は素直だよ。きみ自身が思っている何倍もね」
言われ慣れない言葉に押し黙るしかなかった。今まで逆の事を言われる方が多かったし自分の目なんて見る事もないから何とも言えないけれど。
「だから口に出さなくても分かる。さみしがってる赤葦は、とくに」
「年の功ですか」
「言いますね」
へらりと笑い楽しそうな表情をする彼女の顔を緩やかに昇る朝日が照らし始める。大して高くない鼻筋の曲線がやけに綺麗に見えるのが何だか悔しくて彼女の手をそっと握った。お互いずいぶん冷えている。
「ほら日が昇るよ」
水平線の向こうで白い太陽の縁がじりじりと現れていき、空に漂う少しの雲を照らしていく。真っ暗な海が光り始める。あと何回の夜明けでその日が来るのか、それは分からないけれど。
「寂しいです」
「うん」
「情けない感傷ですけど」
「今の三年は赤葦にそう思ってもらえてしあわせだね」
嫉妬してしまうよ、とちっともそう思っていない口調で彼女は言う。
「わたしにその憂いは拭えないけれど」
「はい」
「きみの気が晴れるまで海だろうが山だろうが街だろうが、真夜中でも昼間でもどこへだって連れていってあげよう」
「狭い車に押し込んでですか」
「もちろん」
笑って即答されてしまいもう溜め息を吐くしかない。それにしても。
「あんた俺に甘いですよね」
「わたしはもうのどが渇いた赤葦にくっそまずいドリンクを作ってあげられないからさ」
「自覚してたんスか」
「不思議だよね、粉溶かすだけなのにまずくなるとは」
あれ一体なんだったんだろうと心底不思議そうな顔をして首を傾げるものだから今度は思わず吹き出してしまった。彼女もつられて一緒に笑う。太陽はすっかり海から顔を出し辺りを照らしている。とても陳腐で言うほど美しくもない当たり前の、三流映画にすらならないようなそんな一日が今日も始まっていく。そういう日々を繋いでその日が来た時、最後に自分が何を思うのかはまだ分からないが。
「また連れてきてください」
「うん」
朝日が寝不足の眼球に染みてその裏側が熱くなり、滲んでいく視界に気づかないふりをした。
帰りの車内、すっかり朝になった風景を眺める。土曜の早朝だからか人通りはずっと少ない。カーステレオから流れる音楽に合わせて彼女は先程から調子っ外れの音痴な鼻唄を歌っている。へたくそ。何となくあの全く意味をなさないガタガタのテーピングを思い出す。
「眠っていいからね」
視線に気づいたのか、ちらりこちらを見て行きの時と同じ台詞を彼女は言った。
「それともまだ眠れないかい」
「あんたが一緒に布団に入ってくれるなら眠れるんですけど」
「わーお大胆。赤葦はいやらしいなあ」
「俺が高校生だって、わかってくれましたか」
「わかっているよ、痛いほど」
今年の春、卒業式を終えほとんど人がいなくなった学校、いつもの体育館で制服の胸に花をつけ一人待っていた彼女の姿を思い出す。俺から呼び出したくせに震えが止まらない自分の手を握りしめ見下ろした時の彼女の顔も。情けないほど震える声で告げた言葉も。へにゃりと笑った彼女が返した言葉も。全部覚えている。
「すいません、あんたに追い付くのはまだ先になりそうです」
「いいよ」
信号が赤になり小さなコペンはゆっくり減速する。シフトチェンジは変わらず滑らかだ。
「一年に一度のいのちだ」
「はい」
「おとなになるのはいつだってできるもの」
そしてこちらを見て、あの日と同じ顔でへにゃりと笑う。
「ゆっくりおいで」
それから俺の頭を優しく撫でた。今度は叩き落とさずされるがまま。それに満足したように彼女は笑った。
「今日の練習は」
「午後からです」
「そうか、みんなによろしく」
「はい」
信号が青に変わり頭を撫でていた手がシフトに戻ると調子っ外れの鼻唄がまた流れてきた。俺は今日の練習と騒がしい体育館の事を考えながらゆっくり目を閉じる。
「おやすみ」
エンジン音とへたくそな鼻唄を聞きながら、何だか久しぶりによく眠れそうだと思った。
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