リュックを椅子の上に置いてそのままキッチンへと向かった日高を目で追う。どうしたらいいか分からずドアの前に立っていると、座ればと言われた。ので、少し悩んでから一番近くの椅子をできるだけ静かに引いて座った。 落ち着かない。太ももの下に両手を敷いて、カウンター越しに日高を見ていると、チャイムが鳴った。 部屋から出ていく日高に合わせて顔を動かす。ふわり閉まったドア。意外と優しく閉めるんだなと思いながら眺めていると、だんだんピントが合わなくなった。 少しして、ぼやけた視界のなかで茶色のそれが動いたから、反射的に姿勢を正す。 日高、の後ろでココア色が揺れた。まさかと目を見開くと、案の定一番会いたくない人物が現れて、時が止まる。 近づいてくる親衛隊長。俺のすぐ側でピタリと止まって手を上げたから、ビクリと身構えてしまった。 「…はじめまして」 意外なほど小さな声で紡がれた言葉に、拍子抜けした。上げられた右手も振り下ろされることなく彼の首元に収まっている。 「は、じめま、して」 「…桐生です」 「あ、と、奥田です」 沈黙。ちらり、親衛隊長の真っ白な靴下からココア色の前髪へと視線を移すと、ふいと体の向きを変えてキッチンへ歩きだした。 「何か、お手伝いすることはありますか?」 それを聞いた途端、自分がただただ座っていただけなのが恥ずかしくなって、慌てて席を立った。 三人並ぶと狭いキッチン。思ったよりも高い位置にあるふわふわのココアを見ながら、日高の後ろで火にかけられた鍋がミルクを温めていたらいいのにと図々しいことを考えた。 「座っとけって」 「お手伝いします」 「…桐生」 日高が親衛隊長の名前を呼んだかと思ったら、くるり、回転して俺の方を親衛隊長が向いた。いや、正確には向かされた。 「あの、日高様…」 「大丈夫」 二人が何をしたいのか把握できなくて、参ったなと斜め上の照明を見ていると、奥田さん、と消えそうな声。親衛隊長のほうに視線を戻すとキッと斜め下から睨まれて、カチンと固まった。 「テーブル、戻りましょう」 はい、思わずかしこまった返事をしてしまった。やっぱり俺のこと嫌いなのかなとビクつきながらさっき座った席に戻る。 茶色の机から視線を上げてみたけれど、相手の目は斜め下をみつめていて、俺と交わることはない。 沈黙。を破ったのは親衛隊長。 「甘いもの、お好きなんですか?」 「へ、あ、はい、好き、です」 唐突な質問。びっくりした。俺の答え方が悪かったのか、また黙ってしまった親衛隊長。 「あの、どんなお菓子がお好きでいらっしゃいますか…」 やめておけばいいのに、俺ってやつは。無言に耐えきれず口から零れたのは下手くそな敬語のつまらない質問。言ったそばから顔が熱くなる。 伺うように親衛隊長に視線を送ると、驚いたような顔でこちらを見ていた。やらかしたと思った瞬間、彼が顔をくしゃりと歪ませて笑ったから、今度は俺が目を見開く番になった。 「そんなにかしこまらないで」 さっきよりもワントーン明るい声に一気に力が抜けた。 「タメで話していっすか」 ほっとしたついでに、ぽろり口が滑って、ああまた余計なことを言ったなとすぐさま反省会。でも、ぜひ、なんてまだくしゃくしゃの笑顔で返事をしてくれたから、なんだよかったと反省会はおひらき。 「奥田さんは、何が好きなの、ですか」 「いいよ、タメで。奥田でいいし」 不自然につけられた三文字に沸いた親近感。もしかして、彼は俺と似ているかもしれない。なんとなくだけど、そんな気がした。 「えと、じゃあ、奥田?」 「うん。俺、甘いものだいたい好き。クッキーとか、マフィンとか。桐生は?」 「僕も好き。チョコが入ってるのは特に」 「え、めっちゃわかる。じゃあさじゃあさ、購買のマフィン好き?」 「好き。ね、奥田は日高様のマフィン食べたことある?」 「ない」 「あのね、すっごくおいしいの、だよ」 「のだよて。でも、日高の美味いだろうなぁ」 のだよて、なんかツボ。ふふっと頬が緩んだのを見てか、桐生はキリッと上がった眉毛を歪めて、なにさと笑った。 「購買のマフィンが好きだとしたら、日高様のマフィンは大大大好きぐらい美味しいよ」 「例え方のクセがすごい」 「でも、そういうことなんだって。これが、購買の。で、こっちが日高様の」 両手で作った小さな丸。それから上半身全部使った大きな丸。キラキラ目を輝かせて、ココア色の髪の毛を揺らしながら熱弁する姿に思わず笑ってしまった。 なんか、普通に話してるわ。二人に言ったら単純だってため息つかれるかな。でも仕方ないじゃん。噂に聞いてた桐生とは全く違う。今俺の斜め前で笑っている桐生は、悪魔なんかとは程遠い。彼の雰囲気は、あまりにも心地いい。 「日高様のマフィンは、僕が食べてきたなかで一番美味しい」 「そりゃ間違いなさそうだ」 相槌を打ちながら、聞こえてきた足音に顔を動かすと、両手にマグカップを持った日高がすぐそこに。 「ハードル上げんな」 あ、この顔見たことある。夕ご飯ご馳走してもらったときの、あの顔。つくづく口調と表情が合ってねぇな。 「上げてませんよ」 笑みを含んだ桐生の言葉に、大袈裟なんだよとふっと笑ってマグカップを置いた。 「ありがと」 「ありがとうございます」 ん、短く返事をした日高がキッチンへ戻って行くのを見てから、桐生へと視線をうつす。両手でマグカップを包んで、嬉しそうに目を細める桐生を見て、ああ本当に日高のことが好きなんだなぁなんて、なぜだか今更思ったり。 「日高様のいれたココアってさ、すごく美味しくない?」 「まってめっちゃわかる。俺の好みにばちこんって感じの」 表現のクセがすごい、マグカップの向こうでまた、くしゃり顔を歪ませた桐生に、どんどん俺の中の彼が上書きされていく。にやけた顔でココアに口をつけた桐生、の斜め後ろ上の時計にピントを合わせて、噂なんて所詮噂にすぎないのだと、当たり前のことを大層な発見のように心の中で唱えてみた。 |