(あ、)

ぱさり、と。音がしたかどうかも分からない。ただそれはひどく静かに地面に落ちた。
高瀬先輩が振り向く。すぐそばの地面に横たわる去年の夏の亡骸と、はだかんぼうになってしまったその手首。部活に勤しむ部員たちの声が遠く聞こえる。私は知っていた。人一倍努力をしながらも人一倍手首のそれに気を払い、いつも大事そうに扱っていた彼の姿を。すでに他の部員全員分は千切れてしまった。去年の夏、あの人が野球部に捧げた愛情の最後の一本が、この日ついに千切れたのだった。

「……あ、の」

どうしてあのとき声をかけてしまったのかは今になっても分からない。ただじっとして呆然としたままの高瀬先輩に居た堪れなくなって、気付いたら声は出ていた。体は動いていた。地面に落ちてしまったあの人の手作りのミサンガを、しゃがみ拾い上げながら彼に言う。

「よ、よかったですね」
「……は?」
「あ、ほら、言うじゃないですか、ミサンガって、自然に切れると願いが叶うらしいですよ」

へえ、と聞き流してくれればまだマシだった。私の台詞を聞いた彼の顔はみるみる歪んで、どこか泣きだしそうにも私には見えた。無神経なことを言ってしまったと気付くのは、まだ少し先のことだけれど。
拾ったそれを大事にとっておくようにと彼へ差し出すと、眉を寄せながら彼は背を向けてグラウンドへ戻り始めた。「あの、これ」戸惑いぎみに行き場のなくなった手を持ち上げると、冷めた彼の声が言った。

「いいよ、捨てといて」

季節は徐々に夏へ向かおうとしていた。一度も私の目を見なかったあの日の彼を、今も忘れられずにいる。




どうしたって今も彼の目に私は映らないのだろうなあと、おもう。あれほど冷めた目をしてあれほど冷たい言葉を吐いておきながらも、いざあの人を前にすると切なさに目を細めるのだ、彼は。
あの人が差し入れにと持ってきたレモンティーマフィンを横目にため息を吐く。とてもじゃないが私にはこんな器用な芸当は到底できない。

「今なに喋ってた?」

声を潜めながらに聞いてきたのは仲沢くんだった。何か不機嫌そうな目をしていたけど、その意図がよく読めずに首を傾げてしまう。

「え、何も喋ってないけど?」
「お前じゃなくてぇ!佳代子、さっき近くにいたでしょ、何喋ってたか聞こえなかった?」

ちらりと彼が横目に見たのは親しげに話す高瀬先輩とあの人だった。口を尖らせて心底つまらなそうな顔をしているこの長身の同級生でありクラスメイトでもある男を見て思う。(おまえもか)

「さあ……よく聞いてないけど別に当たり障りない会話だったと思うよ?気になるんなら仲間に入れてもらってくれば?」
「……べつに気になるとか、そうゆんじゃないけど」
「でも好きなんだよね」
「……まあ」

意外にもあっさりと認めた彼に驚いた。遠目にあの人の姿を眺めながらほんのり頬を染めてすら見える彼を、どうしてか羨ましいとも思えてくる。こんなふうに素直に生きられたらどんなに楽だろう。

「……綺麗な人だよね」
「うん」
「性格だって良くて、もう完璧だよね」
「……うーん」

仲沢くんは少し首を傾げる。完璧じゃないように見えるからたぶん好きなんだけど、俺は。そう言った彼に首を捻る。確かに完璧な人間なんて存在しないと私だってそう思う。けれどあの人はこのグラウンドの景色の中で明らかに突出して輝いていて、眩しくて。目が眩むのだ、その笑顔に。眩暈がするのだ、その声に。

「……憧れとは違うの?」練習に戻ろうとした仲沢くんの背中に問う。立ち止まった彼は振り向いて迷いなく私の目を見た。
きっと逃げ場が欲しかったのだ。そう思うことでほんのわずかにも苦しみを和らげたかった。事実、私は自分が高瀬先輩のことを本当に好きなのかどうかもまだよく分かっていない。

「恋と憧れの境目って、私たちくらいの年頃だといまいち見えにくかったりするじゃない。あの人に対するその感情って、恋じゃなくて、ただの憧れなんじゃないの?」
「……そんなに違うかなァ」

え、と戸惑う声を漏らした私に仲沢くんは言うのだった。

「だって恋ってあの人とこうなりたい、こうしたい、こう思われたいって、そういう自分に憧れるってことだろぉ?大して変わんないんじゃねーの?」

そう言った仲沢くんはものの見事に私を地へと突き落とす。この感情に取り返しはつかないのだろうか。
りーおーと遠くから高瀬先輩が呼ぶ声がして仲沢くんは慌てて向こうへ駆けて行った。多少の嫉妬はあれど彼は高瀬先輩を妬んだりなどは決してしない。ただ自分の感情に素直でいる。(私には到底真似できないよ)
ベンチに置かれたレモンティーマフィンを視界の隅に、私はゆっくりと拳を緩めた。
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