りーおーと俺を呼ぶ控えめな声とバイクのエンジン音が窓の外から聞こえてくる。慌ててズボンを履き替えながら、適当に髪を整えて玄関へ向かう。息をきらして扉を開ければ、彼女の柔らかい笑顔が俺を捉えた。ふふ、ひどい顔、だなんて彼女が言うから、俺はふてくされながらメットを受け取る。

「……寝不足なんすよ」
「ふふ、あたしもー」
「え?」
「昨日遅くまで映画観てて二時間くらいしか寝てないの。今日はしっかり寝なきゃと思ってたんだけど何か目が冴えちゃってねー」

そりゃ自業自得でしょ。俺は明日も練習あんだぞ。そうは思うも、もしもそれを口に出してしまって「じゃあ帰りなよ」だなんて万が一にも言われてしまうのが怖くて、俺は黙って彼女の後ろに跨った。行くよーと言われてその細い腰に回した腕に力を込める。前方からの風に彼女の香りが乗ってきてただ気が気じゃなかった。今でもたまに部活を覗きに来る彼女が、家が近いという理由で準さんを帰り道バイクの後ろに乗っけて送って帰ることがある。初めて乗る俺でさえこんな気持ちなら、何度も同じ経験をしている準さんは一体どんな気持ちなんだろうなあだなんてぼんやり考えているうちに彼女の家へ着いてしまった。
着いたアパートは本当に俺の家から五分とかからない場所にあったようで。それならたまには俺を送ってくれてもいいのに、だなんてまた嫉妬じみたことを思う自分を首を振って打ち消す。知っている。彼女が人一倍準さんに期待していること。いつも自己中な彼女が準さんにはいつも思いやりを見せていること。たった一年の差といえど俺には越えられない壁がそこにはある。にも関わらずその準さんでさえ、彼女の特別には到底なり得ていないというのに、まして彼女の高校生活のほんの一部も共有できなかった俺なんかが。(とどくわきゃない)

「あたし今月末車の免許とるんだぁ」
「……へえ」
「そんでバイトで貯めたお金で車買うの。どうせ中古の安いやつになると思うけど」
「ふーん」
「そしたら利央、一番に乗せてあげるからね」

カツ、ン
思わず階段を上る足を止めた俺を彼女は振り返り首を傾げる。「どうかした?」変わらない笑顔で尋ねるので俺は呆けた顔で問い返した。

「なんで?」
「何が?」
「……俺のこと、いちばんに乗っけてくれるの?」
「うん。なんで?おかしい?」

おかしいよ。いや、だけどそれは俺にとってそうなだけで、彼女にとっては何の意味もないことなのだ。すべてにおいて「特別」という価値がおそらく彼女の中にはない。それが悔しくてもどかしい。
俺なんかより準さんを乗せてあげなよ、だなんてまたくだらないことを口走ろうとした自分を諌めた。言ったところで彼女はどうせ、うん準太も乗せるよーだなんて平気で言ってのけるだけで結局自分の浅ましさに呆れることになるだけだ。変え難い現実を思い知らされることになるだけだ。
わかっているのに。馬鹿な俺の唇は耐え切れずどうしようもないことを口走る。

「……どうせ」
「ん?」
「電話に出たのが俺じゃなくても、同じことを同じふうに言うんでしょう」

えー、と声を濁しながら彼女はポケットから鍵を探る。部屋の前に立って鍵穴にそれを差しこみながら、そして答えた。

「なんで?」
「え」
「利央じゃなかったら会いたいだなんて言わなかったよ」

ガチャリ。と。
扉を開いて中に入るようにと促す彼女に、俺は立ちすくしたままだった。見開いた眼球を風が乾かす。果たしていま俺は一体どんな顔をしているだろう。不思議そうな顔をする彼女に思わず目を伏せる。

「……やっぱ、今日は帰ります」
「えー、何で?」
「だってよく考えたら部屋に二人きりとか……それに俺、またそんなこと言われたら絶対、綾さんに変なことしちゃうもん」

初めて彼女の目を丸くした顔を見た。いよいよ取り返しはつかなくなりそうだ。めずらしく返答に時間をかける彼女からは、だけど表情が読み取れない。馬鹿だと思われただろうか。軽蔑されただろうか。ぐっと唇を噛み締めて俯いたままの俺に、ついに彼女は口を開いた。けろりと、たった一言言ってのけた。

「してもいいのに」
「……え?」
「へんなこと」
「え」
「してもいいよ」

驚いて顔を上げると彼女はただきょとんとしていた。驚くでもなく呆れるでもなく。言われた意味がまだいまいち分からなくて、ただ呆然としていると彼女が「ねえコーヒーと紅茶どっちがすき?」だなんてのん気に聞いてくるからその腕を掴む。「綾さん」続けた声は情けないほどに震えていた。

「キス、したい」

無意識に強く握ってしまったその腕は、絶対に痛かったはずなのに彼女は表情を変えなかった。すこしだけ何か考えるように天井に視線をやるも、迷わず彼女は俺の唇を掬い上げた。ちゅっと愛らしすぎるほどのリップ音が耳をかすめたかと思うと、彼女はこちらを窺うように首を傾げて微笑む。どうしようもないと、思った。(天地がひっくり返ろうと、きっと何も伝わりっこない)思わずその場にしゃがみ込んでしまった俺を彼女が呼ぶ。りおー?ひどく純粋で無邪気な声が痛くて痛くてたまらなかった。

「……綾、さん」
「ん?」
「綾さんは、俺のこと……好きじゃない、ですよね」

自らの傷口を抉る言葉を意を決して言ったのに、それでも彼女は「えー」とまた声を濁らせて「何で?」と問う。そして次の瞬間には平気で好きだよと言うのであろう彼女に、俺はただ泣きたくなった。

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