激しいスピードで自転車を漕ぐ。視界は揺れて定まらなかった。突如正面に見えた人影に慌ててブレーキを引く。道にしゃがみ込んでいたそいつに気付くのがほんの一瞬遅れたせいで、勢いあまって俺は見事に転倒した。カラカラと、自転車の車輪の音が虚しく響く。じわりと手のひらや膝が熱を帯び始めたのを感じて、さあっと血の気が引き始めた。まずい、もしもどこか捻ってたら。

「……高瀬先輩……?」

はっとして顔を上げると俺が避けた対象が見知った顔であることに気が付いた。佳代子。野球部の現女子マネージャー。呆然としてこちらを見つめているその姿に無性にイラついて、俺はみっともなく怒鳴りつけた。

「な、にやってんだよ道の真ん中で!轢いたらどうすんだ!」
「泣いて……るんですか?」

謝りもせずに不躾にそれだけ聞いてきたそいつに苛立った。それでも無意識に顔を背けて目尻に溜まったそれを拭う。
何で、こいつがこんなところに。ある意味で一番こんな醜態を見せたくなかった女だった。
視線だけを彼女にやるとその手には新聞紙が握られている。

「……何、してんの?」
「あ……猫、が」
「猫?」

暗闇に紛れて見えなかった。確かに彼女の足元にその黒猫は横たわっていた。自転車でギリギリまで迫られても避けなかった理由はこれかと納得する。猫は動かなかった。彼女は哀しそうな目をしていた。

「どうすんの?それ」
「お墓を、作ってあげようかと……あ、私、家この近くなんで、だから新聞紙持ってきて」
「知ってる猫?」
「いや……知らないですけど」

ふーん、と上の空で聞く。話をしながら手首や肩を回してみる。大丈夫、異常はない。もしも俺が故障なんてしたら、あの人は。……あの人は、何だ?いま一瞬自分の中に浮かんだ不安を軽蔑する。彼女が俺を見捨てるとでも?何で、俺はとことんあの人をろくでなしにしたがるんだろう。違う、そうじゃなかったはずなのに。

「……先輩?」

呼ぶ声にまたはっとする。顔を上げると彼女がおずおずと聞いてきた。

「あの……大丈夫、ですか?すごい派手にこけてたみたいですけど……あ、あの、アレだったら私ん家本当にすぐ近くなんで、迷惑じゃなかったら手当てとか……」

心配するの遅いだろ。いいよ大丈夫とため息まじりに返すと彼女はそれ以上は何も言わなかった。ただその気遣いは本物らしい。申し訳なさそうに目を伏せている様子を見て、彼女もやはり野球部のマネージャーなのだと実感する。些細な怪我なら今まで何度だってしてきた。そのたびに手当てをしてくれていたのはやはり同じようにマネージャーだったあの人で、俺はあの人の優しさに何度だって触れてきた。なのに、俺は。……俺は?

「墓作ってやろうだなんて優しいふりしながら、そのくせ実は潔癖なんだな」

おそるおそると猫の体に触れないように、新聞紙へその姿を包む彼女へ吐き捨てた。嫌な言い方をしてしまったのはひどくいらついていたから。どうしようもない。俺は本当にくだらない。
佳代子は泣きそうな顔で俺を睨んだ。初めて見たその表情にすこし驚いた。

「潔癖だなんて……」
「潔癖だろ、絶対猫の体には触らないように注意払って……汚いもんでも扱うみたいに」
「そんなんじゃ……!ただ、」

言葉を続ける。彼女は、新聞紙越しに猫の体を優しく撫でていた。

「届かないものに触れるのって、すごく怖いんですよ」

視界が、歪む。「私の手の感触は、もうこの子には届かないから」そうして、遠くにいってしまった猫をいたわるように優しく包んだ彼女の手先に眩暈がした。
怖かった。本当は俺もずっと、ずっと。いざ想いを告げて拒絶されるのが怖かった。すべて明確になるのが怖かった。恐れて、逃げて、あの人には溢れるくらいの優しさをもらったのに、俺はあの人に優しさをあげる余裕も持てずにいた。苦しかった。

好きだった。
それだけのはずだったのに。

どうして、もっと。
いくらでもチャンスは与えられてたはずなのに。たった一言、たった一言でよかったんだ。もう伝えることも叶わない。利央を見上げた愛おしそうな彼女の表情を思い返す。気付かないふりをしながらも本当は俺が心の底から望んでいたそれ。誰の手にも入らないと今までずっと思いこんでた。だけど。

(届かないだなんて勝手に決めつけてたのは、俺じゃないか)

「……先輩」

自転車の籠から投げ出されたCDのケースは割れていた。俺に何かが足りなかったとするならば。

「なかないで」

そっと俺の手に触れた彼女の手を握り返した。何で今まで気付かなかった。簡単なこと。こんなにも人の体温は温かい。


二等星の懇願
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