部活が終わるや否や一目散で更衣室へ駆けた。かつてないほどの猛スピードで制服に着替えて、部員が更衣室へやってきた頃に俺はそこを出て行く。「どうした、りおー」だなんて部員に驚かれたけど、「急いでるんだ」と適当に背中で返して自転車置き場へ走った。鍵を外してサドルにまたがる。勢いよくペダルをこいで校門を出た。切る風が鋭い。高鳴る心臓をさらに煽る。

怖かった反面、彼女からメールが来てすこし嬉しかった。もしかするともうこれから何の音沙汰もなく距離を置かれてしまうんじゃないかとも考えていたから。すくなくとも今日は会える。まだ彼女に俺の名前を呼んでもらえる。

(昨日、綾さんは、何で泣いていたんだろう)

暴力彼氏と縁が切れたことへの安心感?一人になってしまったことへの寂しさ?弱味を見せたことのなかった後輩に醜態を見せてしまった慙愧?一体何だ。

息が切れる。喉が震える。ようやく彼女のアパートの前まで着いて目的の部屋を見上げた。明かりがついてる。彼女が俺を待っている。階段を駆け上がってその部屋の呼び鈴を鳴らす。息をきらし、喉を鳴らすとすぐに部屋の中から足音が聞こえた。それもものすごい勢いで駆けてきながら、勢いよくドアを開けた彼女は俺を見るや否や抱きついてきた。心臓が跳ねる。今の一瞬見えた彼女の表情は、またひどく泣きそうだった。ぎゅっと締められた腕の力から熱が伝わる。突然のことに頭がついていかなくてひたすら慌てている俺を、彼女が利央、と泣き声で呼んだ。

「綾さっ……え、えっと、どうしたの……?」
「よかった……」
「えっ?何がっ?」
「なかったことにされたら、どうしようかと思ってた……」

……今、何て?
ドクンとまた心臓が跳ねる。よかった、来てくれて、とまた呟く彼女に涙腺が緩んだ。なに、言ってんだこの人。そんなの俺の台詞だろ?俺がなかったことにできるはずないじゃん、来ないわけないじゃん。何でそれで泣いてんの?わけわかんねえよ、ねえ綾さん。
混乱にとにかく頭が揺れる。立ちすくしたままの俺に彼女のキスが襲った。分かる、これは意味のある、挨拶なんかじゃ到底ない、特別なキスだ。まだ状況がよく掴めない。彼女の考えていることが分からない。昨日の涙の理由が、分からない。
ぎゅっと締め付ける胸の痛さと滲み出る涙を堪えきれずに、俺は彼女を抱き締めた。そのままひたすらキスをしながらベッドの上に倒れ込む。

彼女のことが好きだった。きっと一目惚れに近かった。初めてグラウンドで目にした彼女はいとも簡単に俺の世界に舞い込んできて、気付けばそれ一色になっていた。だけどその心地の良い笑顔が俺に限らず誰にでも振りまかれていることにはすぐ気付いたし、彼女の世界が何者にも平等であることに気付くのにもまた時間はかからなかった。惚れた贔屓目で見ればそれは純粋でただ無邪気なだけだったけど、その実どうしようもなくてだらしがない。誰にでも懐く。誰にでもなびく。誰にでもその口その声で、好きだと言う。
だからそんな万人共通な権利なんて俺にはいらないと思ってきた。だから逃げてきた。避けてきた。俺ばかりがハマるのは不平等だと思っていた。無神経で能天気な彼女が心底、大嫌いだった。
彼女を手に入れたいと内心ずっと望んでいながら、だから今まで言わなかった。

「好きだよ、綾さん」

言ったってどうせ無駄なことだと、諦めていた。ひどく独りよがりで、自分勝手な勘違いだった。
指を絡ませながら彼女をじっと見下ろしそう言うと、その目が大きく見開かれる。だけどすぐに顔を歪めて涙を溢した。
なんてばかなひと。本当に本当に気付かなかったの。自分勝手でずるいばかりだと思っていた彼女は、ただ感受性の鈍いばかりの純粋な女のひとだった。

「本当にぃー……?」
「うん」
「あたしのこと、好き……?」
「うん……大好き」
「ねえ、じゃあ利央……あたしと付き合って」
「……え?」
「あたしの彼氏になって、利央」

ずっと一緒にいて。
例えば。彼女が誰にでも笑顔を振りまき誰にでも好意を寄せるのは自分が嫌われるのが怖いからで、傷つけられるのが怖いから。彼女が臆病なのはもう知っている、昨晩自分を傷つける男を拒絶する一連を目の当たりにした。例えば。彼女が誰をも求めるのはただ寂しいから。自分勝手でわがままに見えたのもがむしゃら故に自分のことしか見えてないからで、だから自分に好意を寄せる人間の存在にすら気付かない。自信がない。世界を把握する余裕がない。言葉にしないと、伝わならない。

「……綾さん、は……俺のこと、好き……?」

それは全部俺の自分勝手な憶測で、ただの願望でしかなかったけれど。

「好きだよ、利央……何度もそう、言ってるじゃん……」

抱き締めるその体温がそれが全てだと物語ってくれた。
肌を重ねてキスをする。彼女はひたすら涙する。俺の目にも涙が滲む。それでも俺の好きと彼女の好きでは絶対的に重さが違うと気付いていた。俺のほうが何倍も、彼女のために胸痛めていると確信できた。だけど、それでも。

「俺でいいの……?」

情けない泣き顔でそう問うと、同じ泣き顔の彼女が答えた。もうそれだけで十分に思えた。

「利央がいい」

月が丸い。雲が覆って空が翳ると、また彼女の肌も闇を纏う。けれど触れた先の体温は本物だった。指で触れたその涙の温さに、俺は声を漏らしてひたすら泣いた。



実像に触れる、実像を抱き締める
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テーマ「人外ファンタジー」
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