音がみっつ重なった。官能的な水温と彼女の口から漏れた甘い声と、それから一瞬の後にドアが激しく蹴られた音。まだいたらしい。彼女を抱き締めた腕も自然に緩んで、心臓はただならぬ爆音を鳴らし始める。俺がしばらく呆けていると、彼女はすこし考えた後に立ち上がって、近くにあったカーディガンを軽く羽織って玄関へ向かった。え、まさか。中へ入れるつもりだろうかと考えて一気に体温が下がるのを感じた。緊張が走る。綾さん、と俺が声をかけるよりも彼女が口を開くほうが早かった。

「てっちゃん、いるの?」

扉は開けないまま向こう側へ声をかける。てっちゃん、というのは男の名前だろうか。ごくりと生唾を飲むと一枚隔てた向こう側からも声が返って来た。

「……開けろ」
「いやだ」
「ふざけんな」
「ふざけてない」
「……何でなんだよ」

苛立たしげに、だけど弱々しく返す男の声に背筋が震えた。こわい。もちろん喧嘩に持ち込んだら勝てる自信がないだとか、もしもやばい男だったなら今後も恨みを買いそうだとか、理由なんてたくさんあるけれど。でもそうじゃない。それだけじゃないと今気付いた。いまこの心臓が胸を引き裂きそうに騒いでいる何よりの原因は、この男にさえ自分の影が見えてしまいそうだという事実。おもえばこの男から電話が掛かってきた瞬間ですら、俺は彼に敵対心のかけらも持つことはしなかった。俺の中にある彼女の印象は誰に対してだって一様だ。今はただ、続けられる彼女の言葉がこわい。

「てっちゃんはさー……何であたしと付き合ってくれたの?」

なんだかすねた子どものような声。は?とまた苛立たしげに返した男の声を俺もベッドの上からじっと聞く。

「おまえこそ何でなんだよ」
「……あたし?」
「お前は何で俺と付き合ってんだよ。つーか本当に付き合ってる自覚あんのか?」
「てっちゃんが言ってくれたんだよ、付き合うかーって。だからあたしもうんって。自覚あるに決まってんじゃん」
「だからなんであのときOKしたんだよ」
「そんなの好きだったからに決まってんじゃん」
「だったら他の男と寝てんじゃねえよ!」

近所迷惑じゃないだろうか。と、騒々しい心臓とは裏腹に極めて冷静に思考する。けれどこのとき、すこしずつ俺の脳はざわめき始めていた。俺の脳内にある彼女の像と目の前にいる彼女の像が、食い違いを始めている。なにかが違う気がした、なにかを間違えている気がした、なにかを俺は、勘違いしている気がした。

「……てっちゃんこそ、何であたしと付き合ったの」
「いま俺の話は関係ねえだろ」
「関係あるよ。ねえてっちゃん、あたしのこと好き?」
「はあ?」
「だってすぐ怒るじゃん、すぐ殴るし。あたし、ずっと嫌われてるのかと思ってたよ」
「何でそうなんだよ!意味わかん、」
「よくわからないよ、だっててっちゃん、付き合おうとは言ったけど好きだとは一度も言ってくれてないんだもん」

ドアの向こうにいる男はきっと俺以上に目を見開いているんだろうなあと、思った。だって、そんなの。他の男に嫉妬してそれでこんなに怒ったり、こうして真夜中に会いにやってきている時点で彼は彼女が大好きだ。第三者でしかない俺でもわかる。──いや、それとも第三者だから分かるのか?少なくとも彼女には伝わっていない。
しばらく返事が返ってこなかったところを見ると思わず言葉に詰まったのだろう。だってその声色から彼女が本気だということが分かる。決して浮気の言い逃れにそんなことを言い出したわけではないのだと、わかる。

「……綾」
「うん」
「悪かった、もう、殴ったり怒ったりもしねえから」
「……うん」
「頼むからもう、他の男と会ったりすんな」
「…………」
「好きなんだよ、綾」
「……うん」

心拍数がまたすごい勢いで上昇し始めたのは彼女が次に言い出す言葉を予期していたからかもしれない。

「ごめんねでも、あたしはもう好きじゃない」






そこにいた彼女は俺の知る相変わらずの綾さんだった。にも関わらず、認識が変わった。何か、ひどい思い違いをしていた気がする。

何で俺は今まで彼女のことを感情も何も持たない非情で傲慢で気まぐれなだけな女だとおもっていたんだ?そうじゃない、自分の想いが伝わらないもどかしさに心のどこかが彼女を責めていただけだ。いつまでも叶わない想いをいつのまにか彼女のせいにしていただけだ。
俺が勝手に、彼女を自分勝手な女に仕立て上げた。
目を疑う。どうしたって目の前にいる彼女は『普通』に見える。普通に傷付く、普通に悲しむ、そうして普通に、誰かの体温を求めている。たったそれだけのことだった。

「……りおー」

ごめんね嫌な思いさせちゃって。そう言って首に巻きついてきた彼女の腕に痣があるのに初めて気付く。電気を消せと不自然なほど頑なに主張していたのを今更ながらに思い出す。ここにも、ここにも。まるで触れるのが惜しいほど。俺の首筋で嘘みたいにすすり泣く彼女の体温は本物だといい。この抱き締める力の強さが、今この瞬間だけでも俺だけのものであればいい。


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