嫌い。嫌いだくそ。ただでさえ嫌いなあいつが私の脳内をはんぱない割合で占めているから尚嫌い。
大体私はアイツと友達になった覚えなんて微塵もないのに、さも当たり前のように呼び捨てにされる意味が分からない。「おっす、苗字!」だなんて親しげに朝の挨拶をされたときには吐き気がした。
そもそも私は男という生き物が全般的に嫌いだ。その根底は二つ上の兄が夢精してしまったパンツを深夜こっそり洗っているところを偶然目撃してしまったことにある。もちろん誰に公言できるはずもなく、気が付けば私はとんでもない不快感を片手に「雄」というものを嫌悪するようになっていた。誰であろうと男子と見ればすぐに目を白くする。ちぇ、愛想のねー女、だなんて捨て台詞は果たして何十回聞いたことか。だって仕方ないじゃない、きもいんだもの!ともあれ一度喋ればどんな男子も二度と私と関わろうとしなくなるのはこれ幸いだ。
それにも関わらずアイツとくれば。どんなにそっけなく接したところでいつまでもいつまでも馴れ馴れしく話しかけてくるからもううんざりだ。それもまるで犬みたく。いや、犬はかわいいからやめておこう、うーん蝿でいいや。蝿みたく。
とにかく嫌いだ。私は山本武が嫌いである。


「教科書見せて」

空気に混ざるくらいに小さな声を私は捉える。発生源へ振り向くと山本武が私を見ていた。そういえばそうだ、隣の席なんだったこの男。むかつくので無視してそのままそっぽを向いた。しかし山本は諦めない。消しカスを投げてきたり紙くずを投げてきたり、というかあらゆるものを投げてきて私の気を引こうとする。5円チョコを一枚だけ買った形跡のコンビニのレシートが投げられたときには、さすがに突っ込みたくなったがどうにか堪えた。
ふん、ばかめ。お前なんか困ればいい。もういっそ教科書恋しさに涙すればいい。

「なあ、苗字〜」
「しつこいな、何で私が」

もういい加減諦めろよ。反対サイドの人に頼めばいいじゃん。と、思ったら今日に限って休みだった。どちくしょう。

「じゃあ山本、次の行から読んで」

歴史の先生が山本をあてる。わはは、ざまあみろ思う存分怒られるがいい!えっ、とあからさまなリアクションをとった山本は、頭の後ろに片手を当てながら立ち上がった。もちろんその顔には笑顔がある。

「すいません、教科書忘れました」
「何?またか山本。だったら何ボーッとしてる。さっさと見せてもらわんか」

はーい、と返事をしながら山本は私に視線を送る。仕方ないから貸してやったら、お礼もない上「ほら見ろ、お前のせいで怒られた」だなんて台詞を投げつけられた。
はァァァ!?何が何で私のせいだ、教科書忘れたお前が全面的に悪いだろう!
……叫びたいが今は授業中。もちろん大人しく我慢してやる。私の理性は実に強固だ。

読み終わった山本は席に座って私の机と自分の机をくっつけ始めた。
あーあちくしょう。結局こうなるのか馬鹿野郎。こうなりゃ一刻も早くチャイムが鳴るのを待つばかりだ。しかし時の流れというのは常に一定。どんなに時計に向かって念を送ったところで針が早く動くはずもない。

それじゃあ次のページを開け、と先生。ページをめくろうと伸ばした手は私よりも山本のほうが早かった。無駄に悔しい思いをしながら山本を睨む。しかしものともしていない。
ふと山本が小さく噴き出した。何事かとその視線をたどってみると、教科書の上のペリーが男爵ヒゲにビン底眼鏡を携えている。最悪だ。なんて失態。いつだったか授業で退屈していたときに気まぐれに働いてしまった悪戯心。これは私の教科書であり、こんな馬鹿げた落書きをする犯人も私しかいない。山本は声を殺して笑いながら腹を抱えて私を見ていた。

「苗字って意外とおもしれーのな」

今ほどプライドが傷つけられた瞬間もない。ピシャリと脳に落ちた雷は全身に電流を行き渡し、やがて放電し始める。ぷるぷると恥ずかしさに身を震わせながら、私はシャーペンで思い切り山本の手の甲を突き刺した。悲痛な叫びが教室中に響き、先生や生徒の視線が一斉に山本へ集まるけれど知らんぷり。

「どうした、山本」
「あっ、いや何でも」

不可解そうにしながらも先生は授業を再開する。苗字〜と恨めしそうに私を睨むその目にはうっすら涙がにじんでいる。さすがにこのときばかりはヤツの笑顔も引きつっていた。これほど清々しい気持ちも初めてだ。
数分して退屈し始めた山本が徳川慶喜の顔に落書きをし始めた。これ私の教科書なんだが。ちっとも気にしない様子で慶喜に鼻血を書き続けている山本に苛々する。なんて短絡的。なんてセンスの無さ。

「やっぱだめだな、山本は」
「ん、何が?」
「こういうのはいかに不自然なく原型を壊していくかがミソなのに。鼻血なんかじゃ甘っちょろいね」

言いながら私は慶喜の眉毛を両津勘吉に仕立て上げる。続けて口の両端を吊り上げて怪しい笑みに仕立てあげれば、また山本が噴き出した。このやろう、どんだけ笑いのツボが浅いんだ。先生はいい加減注意するのに疲れたのか無視していたが、周囲の生徒はちらちらとこちらを見てきた。ちくしょう、山本のばかやろう。私が山本と仲がいいのだと勘違いされてしまうじゃないか。なんて不愉快。もう相手なんかしてやらん。
シャーペンを転がしてふいっと窓へ顔を背けた。晴れた空はさんさんと日差しを降り注ぐ。照る太陽が網膜を乱暴に叩き付けるこの感覚。ヤツと話すときに酷似してる。
やはりどうにも苛々して窓から視線を元に戻すと、机に突っ伏した山本が覗き込むように私を見ていた。反射的にびくりと驚く。にやにやと相変わらずの笑顔がむかついたので睨んでやったら、山本は一層笑顔を緩めてこう言った。

「好きだなー俺、苗字のこと」

……はっ?驚いて目を見開くが、普段のこいつの行いを思い返して桃色の発想を切り替えた。きっとあれね、沢田とか獄寺とかに対するすきと同じ系統のすきね。あーあー、何ドキドキしてんだ馬鹿馬鹿しい。ふうっとため息を吐いてはっとする。ドキドキ?ドキドキしたの今私?え、は?意味わかんないんですけど何で私がこんなノッポにときめかなくちゃならないの。いい加減にしてよありえないんだから死ね、もうなんかみんな死ね。
何にしろどんな好きであろうと不愉快だ。私はこいつが嫌いなのだから。

「却下」
「え?何?」
「却下するって言ったの、あんたが私を好きなのを」
「許可かー、はは、照れるな」
「耳くそちゃんとほじってる!?」

ばっと一斉に私に視線を送る教室中に硬直する。馬鹿か私は。耳くそて。もっと言い方あったろうに、せめて聴力大丈夫でいらっしゃいますか?とかさ。
ほじってるぞ、先生は。答えた先生に教室中が爆笑した。顔が熱い。なんて屈辱。
山本は机に蹲って腹を抱えて笑っていた。私の胸の中にまた黒いものが浮かび上がったのは言うまでもない。
きっと今夜もこいつのことを考えるんだ。どうやって目にもの見せてやろう、どうやって度肝を抜いてやろう。
上目に見ながら「やっぱ好きだわ」と小さく囁く山本に私の心臓はまた鳴いた。
あーもう、消えちゃえばいいのに。

私が。



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