「大人って、もっと大人なんだと思ってた」

落とした傘が、地面にまあるく綺麗な円を描いた。
雨に打たれながらしぶとく揺れるそいつの動きを止めて拾い上げたのは、嘘みたいに綺麗な指先。同じように嘘みたいに綺麗な瞳をこちらに向けて、彼はこちらに差し出すのだった。雨のように冷たく辛辣な言葉と共に。





数学準備室の扉を行儀よくノックしたのは、黄瀬涼太だった。しかしながらどんなに行儀よくノックして、どんなに礼儀正しく挨拶をして扉を開けたところで、彼がここに来た理由は決まっている。私の授業中にうたた寝を決め込んでいた彼に、罰として課した課題を提出しにやってきたのだ。
数式は素直だ。どんなに複雑でどんなにややこしい数字も、公式の上を滑らせれば一様に答えを導き出すのだから。

「早かったのね。ちょっと少なすぎたかな」
「何言ってんスか、じゅうぶん鬼っスよ……!」

差し出されたノートをぱらぱらとめくりながら内容を確認する。誰に手伝ってもらったわけでもない黄瀬涼太本人の字。嫌味をたっぷりこめて出した課題を、たった一日で終わらせただなんてにわかには信じがたい。だけど仮に何か小細工をしていたとして、私にバレるようなヘマだけはしていないはずだ。そういう生徒だ。

気に食わない、私はこの黄瀬涼太という生徒が。
熱く情熱的で官能的とも言えるその瞳は、反面氷のように冷めている。その奥底から驕りが見える。まるで世の中のすべては自分の意のままというような。事実、彼は神に愛されている。
中学バスケットボール界で「キセキ」と大袈裟に賞賛される世代の中に彼はいた。廊下を歩めば決まって彼の名前を耳にするほど、校内では有名人だ。ただでさえそうして日常からとりついて離れてくれない上に、コンビニや本屋に行けば今度はモデルとして自らの魅力を主張してくるものだから厄介だ。

彼の瞳が私の机の上の写真立てを捉えた。すぐに気付いて机に伏せようとしたけれど、それより早く黄瀬涼太の手がひょいとそいつを取り上げる。基本的にバスケ以外のことには興味を示さないそいつにはめずらしく、まじまじと見つめた後に表情の見えない瞳がこちらへ向いた。私は無意識に視線をそらした。

「……彼氏っスか?」
「……まあね、返して」
「知ってる」
「え?」
「俺、このひと知ってるっスよ」

まるで無表情に言うので、私も言葉に困ってただ目を丸くした。壊れ物を扱うかのような静かな手つきで、黄瀬涼太は写真立てを元の位置に戻した。

「……何で?」
「何で、って……撮ってもらったことがあるから」

ああ。
すべてを納得した私は、寸分違わない角度で元に戻された写真立てに視線をやった。彼氏とのツーショット写真を職場のデスクに飾るだなんて本来ならば気恥ずかしい。だけどこの写真立ては私の誕生日に彼から贈られたもので、写真はカメラマンである彼の手でその日撮られた、めずらしく彼自身の写る一枚だ。仕事の忙しい彼と頻繁には会えない毎日の中で、それはどうしても必要だった。心に安らぎを与えてくれる唯一のものだった。

「……いつから付き合ってるんスか?」
「もうすぐ二年」
「…………ふーん」
「あんたみたいにとっかえひっかえ付き合ってないからね」
「はは、ひどいな、どんなイメージっスか」

どんなも何も、子どもでしょう。どうしようもないくらいに、貴方は子ども。
まるで十数年やそこらの人生で世の中のすべてを手に入れたかのように驕る瞳も、惜しみなく自らの魅力を曝け出してひけらかす愚かさも。骨格から顔の成分、果てには筋肉の質さえも、完璧に生まれてしまった貴方にはまるで想像できないでしょう。貴方の美を生み出して世を称賛させているのは、貴方自身の力ではない。それを如実に映し出して表現している、あの人の仕業だ。世の中の美も醜も映し出して切り取る彼の仕事に私は心底心酔している。驕りも愚かさも何もかもとは無縁な、ただ一歩離れた場所から真実を見通すその瞳に。目の前に立つマネキンのように精密な若者とは正反対の、大人な彼に。

「先生、もったいないね」

透き通ったガラス玉のような瞳が言った。視線を返すと同時にチャイムが鳴った。

「……つぎ、授業なに?」
「英語、たぶん」
「早く戻りなさい。ノートはチェックして明日返すから」

鳴り終わったチャイムを聞き届けて、何故だか黄瀬涼太はほんの小さく吐息を漏らした。小鳥のさえずりを慈しむような不似合いな視線を私に注いだあとは、ゆっくりと数学準備室をあとにする。ピシャリと閉じた扉の先では、彼の上靴が廊下を叩く音が聞こえた。滑るように控えめで、だけどまるで機械じみた精密さで。





「……知ってたんでしょ」
「……うん」
「知ってたことを、私が何となく気付いてたってことすらも、知ってたんでしょ」
「…………うん」
「馬鹿だって思ってるでしょ」
「…………うん」
「だけどかわいそうだなんて、思わないんでしょ」
「…………」

私に落ち度があったとするなら、心底頭が悪かったという点だ。いいや、頭が悪いふりをしていた。
黄瀬涼太のいるクラスの数学を私が受け持っていることを知っている彼が、どうして彼を撮影したことがあることを私に一度も話さなかった。
答えは難解な数式よりも明解だ。

「一人とか二人とか、そういうレベルじゃないっつーか……まずモデルの女の子とは大体関係持ってたし、仕事中もしょっちゅう女から電話かかってきてた。浮気だとか遊んでるとか、そういう意識すらないかもしんない。いい写真を撮るためには、被写体のより深くを知るのが一番だとか言ってたこともあった。下手したら全部仕事の一貫だって本気で思ってる」

私に、落ち度があったとするなら。あの人が綺麗な女の子を肩に抱いて雨の中ホテルへと駆けこんでいく姿を、まぎれもない浮気の現場を、この目にした瞬間をよりにもよって黄瀬涼太に見られたことだ。

差し出された傘をいつまでも受け取る気にならない私は、ただ綺麗な作り物のような指先に目を奪われていた。何かを生み出す、何かを映し出す、そんな回り道をしなくても、ただ存在するだけで完成している「キセキ」の男は、まるで冷めた瞳を私に投げかけるだけだった。

「……先生、ほんと、俺のこと嫌いっスね」
「…………うん」
「俺も先生嫌いだけど」
「…………うん」
「先生のこと、他の教員よりもちょっと若いってだけでキレイとかカワイイとか、クラスの人たちはもてはやしてるけど。反吐が出るっス」
「…………」
「頭良くて、キレイで、カメラマンなオシャレで年上の彼氏がいて、生徒からも人気あって、どっか天狗になってたでしょ。どっか周り見下してたでしょ」

差し出されていた傘がついに放り出されて、代わりに頭上にぽんと手のひらが降ってきた。

「ザマアみろ」

雨に打たれて冷えていた脳天を乱暴なぬくもりが包み込んだ。すっかりずぶ濡れな私を自分の傘の中に入れる気すらない様子の黄瀬涼太は、だけど薄い笑みを浮かべながら挑発的に私に視線を送っている。

どうしてくれよう。
水没した回路はもはや正確に数式を解読できない。心底憎い二人の男を、同時に見返してやれる手だてがあるとするなら、私に思いつくのはいま目の前の男の唇に噛みつくことだけ。不敵に描く綺麗な弧に、かじりついて飲み下すだけ。



水鏡
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