初めは、高校生に戻ったみたいだなんて思って素直に喜んではいたけれど。考えてみれば当たり前、私にまわってくる仕事は雑用ばかりで、実に単調な作業ばかりだ。そりゃあ主役は生徒だし。文句を言うつもりもないけれど。ただその頃私はまだ若くて、先生なんかよりも高校生の心地にずっと近くて、生まれてくるのは教師への羨望どころか生徒への嫉妬心ばかりであった。ああむなしい。生徒にまじってこの高校の教師軍の悪口を聞いていると、輝ける未来もなにもが姿を消した。将来の夢?くそくらえだ。


「げ!」

うっかり大人気ない悲鳴をあげる。私の筆は暴走し、その赤い絵の具は思いきり少年の口からはみ出してしまった。片側の口端だけ釣りあがってしまったそいつの笑顔は引きつりまくっていて、とてもじゃないが美味そうにかき氷を食っているようには見えないでいる。
どうしようと苦笑しつつ逃げる体勢を整えようとしていると、大きな手が私の眼下に伸びてきた。そいつの握った筆は肌色の絵の具をつけていて、一瞬にして私の失敗を隠蔽する。綺麗に修正された少年の頬に感心しながら顔を上げる。仙道彰は笑っていた。

「……ありがとう」
「うん」

決して器用ではないそのごつい手は、しかし要領よく囲まれた枠の中を塗りつぶしていく。部活だからという理由で今までほとんど文化祭の準備には顔を出さないでいたこの仙道彰に、私はしばらく作業の手を止めたまま見入っていた。仙道彰は私に気付くとまた少し笑んだ。

「楽しい?」
「え?」
「色塗るの」
「いやあ……うん、まあ、それなりに」
「そうなんだ。俺はつまんないけど」

楽しいとせめて思い込もうという自己暗示にも近い私の嘘を、仙道彰はいとも容易く台無しにした。なんだかすこしむっとする。しかしつまらないと言いながらも、私の仕事をこうして手伝ってくれている姿に感動した。作業の手を再開させつつ、私は仙道彰に聞いてみた。

「仙道くん、今日は部活は?」
「ん?」
「バスケ部、今忙しいんだよね。文化祭当日も試合とかぶって来られないんじゃなかったっけ?」
「……ふふ」
「え、何」
「いや、俺のことよく知ってるんだなあと思って」

意味ありげに口元を緩めた仙道彰に暫し沈黙を余儀なくする。その一見優しげな目尻に妙に見惚れた。寒気がした。

「……あのねえ、べつに仙道くんに限んなくても、自分の担当のクラスの生徒のことなら、最低限のことは知ってるよ」
「そうなの?」
「そうだよ、馬鹿にしないでよ。名前と愛称くらいは分かるからね。それからクラスでの立ち位置とか、性格とか、成績とか」
「ふーん」

すこし意外そうな顔をした仙道彰はまたすこし笑ってから言った。

「がんばってんだね」

それから滑らかな動作で少年の肌を塗り終えた仙道彰は、汚れた筆とパレットを持って立ち上がった。そうして私の持っている筆を貸せと言わんばかりに手をこちらに差し伸べる姿を、私はしばらく黙って見上げていた。おおきい体。大丈夫だと首を横に振って私もそのまま立ち上がる。並んで水道に向かいながら、私は横目でそいつの逆立つツンツン頭を何度も見上げた。仙道彰は蛇口をひねった。水が流れ落ちると同時に、思わず口をついてでた。

「仙道くん、モテるでしょ」

見透かされた悔しさも、向けられた笑顔への感謝も何もかもが入り乱れてどうにも言葉にはできなくて、代わりに出てきた台詞に仙道彰は驚くでもなくまた笑った。ははは。歯の浮くような爽やかさ。

「何で?」
「バスケ部エース。高身長。爽やか。イケメン。ちょいワル」
「はは、ちょいワルって」
「授業も部活もよくサボるでしょ」
「本当よく俺のこと知ってるね」
「……そうかも」

水道の水を流しながら筆についた絵の具を洗い流していた仙道彰の動きが止まった。横に割り込んで私もその作業を黙って手伝う。流れる水の色を混ざり合った絵の具の色が染めていく。今度は本当にすこし驚いたような顔をしていた仙道彰は、またすぐにへらりと笑ってから言った。

「じゃあセンセー、今度一緒に授業サボろうか」
「口説いてるのかふざけてるのかも分かんないし」
「両方かな」
「だったら残念、私彼氏いますから」
「どうせすぐ別れるよ」
「はぁ!?」
「名前ちゃん、これから俺のこと好きになるから」

キュッ。締めた蛇口の音が耳に響いた。目を丸くしてしばらく何も言えずにいたけど、不敵な顔つきをしているそいつがあまりにも気にくわなくて私はすぐに眉を寄せた。指についた水を顔目掛けてピッと飛ばすと、仙道彰は「ははは」と愉快げに笑ってみせた。

「ほんとガキだね、死ねばいいのに」
「よく言われる」

憎たらしい。きっと半分口説いていながら、そして半分はふざけている。
いいやそれでも、子どもが何を言ってんだと笑えなかった私が負けだ。見上げた背中の大きさが、彼の未来を物語る。かつて私が置き去りにした、自意識の欠片がそこにはあった。

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