「世の中クズだ。糞だカスだチンカスだ」

その声は囚人にしてはあまりに綺麗なものだった。

前触れもなく突然響いたそれはどうやら隣の牢からのものらしい。黙っていると「ねえそう思うでしょ」と同意を求められたので、とくに躊躇いもなく返事を返した。

「そうですね」
「……あれっ」

まるで意外そうな声が返る。僕に話しかけたわけではなかったのだろうか。「あんた新入り?」と聞かれたのではいと答えた。その後寂しそうに「……そう」とだけ答える声を聞いて、僕は何となく察した。彼女はおそらく、僕より前にこの牢に入れられていた人間と仲が良かったのだろう。そして僕が来たときにはすでにその住人がいなかったところを見ると、つまりそいつは。

「……何でだよ……」
「僕ですみません」
「……別にいいけど」

壁一枚隔てたそこにいるらしい彼女は、ひどく悔しそうで寂しそうだった。しばらくすると鼻をすする音まで聞こえてくる。どうやら泣いているらしい。
不思議に思った。ここにいるということは少なくともたくさんの人間を殺した人間であるはずなのに。どうして顔も知らない相手のことを思って泣けるのだろう。彼女は、最初から不思議な人だった。

***

それから一度も口を開かないまま夜を迎えた。いつものようにろくな夢も見ないままにまた次の朝を迎える。それからまた夜が来て、朝が来て。数日たったある日、また隣の彼女から声がした。

「……ねえ」
「…………」
「ねえってば」
「僕ですか?」
「そう、あんた」
「どうかしましたか」
「別に。退屈だから話しかけてみただけ」
「そうですか」

沈黙。しばらくすると「何か話せよ!」と突然理不尽に怒鳴られた。しかしいくら暇といえども、赤の他人と世間話をするほど僕は些か元気でない。そのまま黙っていたものの、ついに彼女はお構いなしに一方的に喋り始めた。

「暇ーひまひま。アイスクリーム食べたい買い物行きたいテレビ観たい」
「…………」
「ご飯もおいしくないしさ。ひどいんだよ、この前食事運んで来た看守に特上寿司食わせろって注文したらほっぺた殴られちゃった。もうお嫁に行けない」
「…………」
「てかあんた昨日寝っ屁してたよ。聞こえたもん、ブッて」
「……してません」
「してましたー!ついでに言うと歯軋りも激しいの。もううるさくて眠れやしない」
「ていうかさっきからうるさいのそっちなんですけど」

「あんたがなかなか返事してくれないからじゃーん」と語尾をのばすむかつく喋り方をされる。まったく、これほど元気な囚人もめずらしい。
それでもひたすら無視していると「つまんない男。あんたモテないでしょ」と失礼にもほどがある台詞を吐かれた。少々プライドに障ったが黙っておいた。

また次の日。またその次の日も彼女は僕に話しかけてきた。いつのまにかそれに答えている僕もいた。退屈なのはお互い様だった。
最初はただ面倒だと思うだけだったが、いつのまにか看守のいない間に交わす彼女との会話が、代わり映えのない毎日を送る僕にとっての唯一の楽しみとなっていた。今日の飯は硬かっただとかあの看守は融通が利かないだとか昨日はこんな夢を見ただとか。それも他愛もない話。だから僕は忘れていた。考えることもしなかった。彼女が一番最初に言った言葉の意味を。

***

また今日もいつものようにくだらない会話をする。外の天気すら分からないこの状況で、彼女はいつも元気だった。つられて僕もほんの少しだけ元気になる。ほんの気休めだけれど、彼女の陽気さに心が晴れるのを感じた。

「どうしよう。また便秘なんだけど」
「ケツの穴に指突っ込むといいですよ」
「高貴なあたしがそんな下品な真似するわけないだろ。殺すぞハゲ」
「ハゲてません」
「うっそだ。顔が見えないと思ってそんなこと言っちゃって。見える見えーる、あんたの後頭部に十円ハゲが」
「黙れ便秘女」

きゃっきゃっと笑う彼女は本当にいつも楽しそうだ。だけど僕は知っていた。毎夜彼女がうなされていること。苦しさが伝染してくるようで僕までが寝苦しくなる。

「あんた何人殺した?」

唐突な質問に少々驚いた。こんな会話をするのは初めてだった。だけど声はいつもの陽気なままなので、こちらもいつもどおりに返す。

「数えてないので分かりません」
「そう。あたしも」

妙な違和感があった。彼女も、人をたくさん殺している。分かっていたはずなのに、それでも今更信じられないと思えてくる。

「世の中腐ってる。あたしは、世の中の害になると思ったやつを殺しただけなのに。世界を思ってしたことなのに。どうしてこんな目に合わなきゃいけないの」

突然どうしたというのだろうか。彼女が愚痴を吐くことはたびたびあったが、こんなことは初めてだった。心から世の中の全てに嫌気が刺しているというような。心から何もかもに失望したというような。
だけど彼女も大概変わり者だと思う。まるで自分中心に世界が回っているように言う。自分の基準がすべての正義であるように言う。なるほどこんな場所にいるのもそのわけかと、僕は少しだけがっかりした。

「どんなやつらを殺したんですか」
「たくさん。いろんなひと。女とか学生とか、年老いたじいさんや小さな子どもだっていた。まあ、大半はマフィアの連中だけど」
「要するに無差別殺人ですか。貴方もなかなか狂人ですね」
「違う!」

突然彼女が声を荒げたので驚いた。乱れた息遣いがこちらまで届く。いったい何に憤っているのか。

「わかるんだよ、あたしには。そいつがどんな人間かくらい、一目見れば。いまどんなに普通でも、将来腐ると判断したらあたしは誰だろうと構わず消す。だけど無差別ってわけじゃない。なのに、どうしてかみんなあたしが腐ってるかのように言うんだよ」

当たり前だ、と言いかけてやめた。つくづく馬鹿馬鹿しいと思う。まるで自分には相手の本質を見抜く能力でもあるかのような言い分だ。頭がおかしいとしか思えない。

「でも、あんたはいいやつだよね」

つくづく、彼女は馬鹿だと思った。本当に相手の本質を見抜くことができるというなら、こんな台詞が出てくるはずはないのだから。

「……少なくともこんなところに入れられてるくらいですから、いいやつとは言えないんじゃないでしょうか」
「いいやつだよ。分かるって言ったでしょ、あたしには。あんたの息遣いや声色でわかる。あんたは、本当は何よりも人に愛されることを願ってる。ただの寂しがりやさんなんだよ」

馬鹿馬鹿しい、と、おもった。彼女はとんだ狂人だ。なぜだか無性に腹が立ったので、その後は彼女をひたすら無視した。また今夜も寝苦しかった。

***

「ねえ、けんとちくさって誰」

またある日。彼女が唐突に聞いてきた。

「……は?」
「あんた寝言でたまに言ってるよ。そいつらに、ごめんて言ってる」
「…………」

しばらく黙っていると「あんたの大切な人?」と聞かれたので、そのようなものですと答えておいた。
どれほど彼女と会話を重ねようと、一度も忘れることはなかった。自分の、野望も夢も。己に課したひとつの義務も。

「そっか……」

吐息まじりの声。その表情は読めなかった。

「あんたには、まだ会いたい人が、いるんだ、ね」

それだけ言って、彼女はおやすみと告げて眠りについたようだった。彼女が何を考えているのかは、分からなかった。


ネジがひとつ外れたような発言ばかりをする彼女に、僕はそれでもたったひとつだけ同意することがあった。世の中は腐っている。憎むべきマフィアが大量に蔓延っているこの世界には、僕らの居場所なんてきっと永遠に存在しない。
彼女はそれに気付いていたのか。今まで、外の世界で何を見てきたのだろうか。僕にはそれを知る由はない。もうこの先永劫に、それを知ることは許されない。


またある日。そしてまた彼女は唐突に言った。

「あんたは、いつかここを出ようと思ってる?」

少しだけ驚いた。たしかに、そのとおりだけれど。ここにいるものの大半はいずれ死刑になることが決まっている。つまりその問いかけは、『脱獄する気があるのか』という意味そのものだった。
だけど僕は正直に言った。

「思ってますよ」
「そ。やっぱり」
「……やっぱり?」
「そうだと思ったって言ってんの。あんた前のやつみたいに声が枯れてない。まだやり残したことでもあるんでしょ」

ここ数日、馬鹿馬鹿しいとは思いながらもいつかの彼女の話を信じたくなることがある。いや、わずかなりとも心を見透かされていることを僕はすでに実感している。

「いつ出るの?」
「わかりません。もうしばらくタイミングを見計らって……」
「だったらいいこと教えてあげる」

彼女は少しだけ声を潜め、言った。

「明後日の正午頃。本当に脱獄する気があるならそのときにしな。一番警備が手薄になるはずだから」

どういう意味かは、分からなかった。脱獄するのなら夜だと当然のように決め付けていた僕にとって、その提案は意外だった。だけどもしそれが本当なら一緒に行こうと彼女を誘った。彼女はその気がないという口ぶりだったが、数度の誘いにやっと折れて「分かった」とだけ答えてくれた。

「他にも仲間がいるんです」
「へえ。きっと助けてあげてね」
「何言ってるんですか、貴方も一緒に行くんですよ」
「あら、そうだった。いいけど足手まといにはならないでよね」

こっちの台詞だと言いたくなる。

「そんなかに犬と千種もいるの」
「いますよ」
「ふーん、あっそう」
「自分から聞いておいて何ですか、その態度」
「眠いんだよ。もうオナって寝るね、おやすみ」
「はしたない」

やっと自由になれると思った。そして彼女もついてくるのだと、信じて疑わなかった。


やることが僕にはあった。腐った世の中を壊す。まずは最低な人種である、マフィアを殲滅する。犬も千種もそんな僕を信じて今までついてきてくれた。手放すわけにはいかなかった。諦めるわけにはいかなかった。

そういったものが、彼女にはなかったのかもしれない。退屈だ退屈だと言いながらも彼女には脱獄の意思がなかった。僕が誘ってやっとしぶしぶ承諾したが、さもないと一生空の色を拝むことを望んではいなかっただろう。やることがないのなら僕の手となればいい。そう思った。ずっと側にいればいい。ずっと隣を歩けばいい。ただお互いの気が済むまで。

当日、正午。力ずくで鉄格子をはずして牢屋を出た。あえて彼女に声はかけず。外から鍵をあけて驚かせてやろうと思った。けれど。

「こんにちは僕です」

そこには何もいなかった。それどころか牢の鍵は開け放たれていた。

何が何だか分からなかった。昨日までたしかに彼女はここにいた。言葉を僕は、何度も交わした。
すべてはまぼろしだったのだろうか。どれほど疑っても僕の耳は彼女の声をまだはっきりと覚えている。鈴というよりは、鐘のような。重く体の重心に響く透き通る声。

とにかく彼女が教えてくれたせっかくの機会を無駄にするわけにはいかない。一度その場を離れて犬や千種のもとへと急いだ。
邪魔をしてくる看守は数人いたが、みんな造作もなく殺した。だけどたしかに、いつもとくらべどう考えてもその人数は少なかった。拍子抜けするほど他愛なかった。彼女はどうして、この日のこの時間帯を安全だと知っていたのか。

犬や千種に、他にも四人ほど引き連れて牢獄を脱出する。一応一度だけ彼女の牢へ戻ってみたが、やはり何もいなかった。

そうか、と無理やり納得する。足手まといにはなるなだとか言っていた彼女のことだ。きっと僕らより一足先に逃げ出したに違いない。きっと、そうだ。
そのわりには通りすがりに会った看守たちの様子も普段と変わりなさすぎたけど。

「骸様?」
「どうかしたんれすか?」
「…………いえ」

何度も後ろを振り返る僕に犬と千種が心配そうに声をかける。きっと、逃げたはずだ。そう言い聞かせる。


その日が、彼女の死刑執行日だったと知ったのはその一週間後のこと。

『世の中クズだ。糞だカスだチンカスだ』『……何でだよ……』『あんた何人殺した?』『でも、あんたはいいやつだよね』『あんたは、本当は何よりも人に愛されることを願ってる。ただの寂しがりやさんなんだよ』

『明後日の正午頃。本当に脱獄する気があるならそのときにしな。一番警備が手薄になるはずだから』

たった一人の女の刑に、監獄の警備が手薄になるほどたくさんの人間が関わったとなると、彼女もやはり只者ではなかったらしい。それほどの人間ならば脱獄なんてきっと容易にできたはず。なのにどうして。

『あんたには、まだ会いたい人が、いるんだ、ね』

彼女の狂った頭の中なんて、僕は到底知る由もない。知ることなんて許されない。


「骸さん?」
「……どうかしましたか、犬」
「いえ……なんかぽーっとしてるなーって」

なんて取るに足らない世の中だろう。何もいらない。必要ない。すべて、消えてしまえばいい。

「これからどうするんれすか?」
「そうですね、まずはその少年にランキングでも出してもらいましょうか」

怯えた表情を見せる少年を見てくすりと笑う。すべて、壊れてしまえば、いい。

顔も知らない君へ。名前すら聞かなかった君へ。それでも誰より僕のことを知る君へ。せめてもの餞に、どうか、

「世の中クズだ。糞だカスだチンカスだ」
「へっ……む、骸さん?」

「そう思いませんか、犬」

外の世界も大差ない。監獄と同じ、どこも同じような景色ばかりだ。

この透けるような青さも、所詮偽者。そう信じて、空を見上げる。


空がいて、こぼれた
(二十万打フリー再録)

「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -