「死んじゃえ」と、思わず口をついて言ってしまったのは昨日のことだった。彼は表情を変えなかった。いつものようにあの気色の悪い座り方で、あの気色の悪い眼差しで瞬きもろくにしないままじっとこちらを見上げていた。彼は表情を変えなかった。

一体何に腹を立てたのかは覚えていない。ただなにか無性に苛立って、無性に彼という存在に腹が立って、だから彼の座る椅子を蹴ったのだった。ガン。当然蹴れば音がする。何するんですか。ちっとも驚かない彼が言う。
なんだかむかついて。「理不尽です」もっと驚いてよ。「驚きました」嘘、ちっとも驚いてない。「椅子がかわいそうです」心にもないこと言わないで。「どうしたんですか」どうもしないわ、あなたこそ、

(どうにかなってよ)

日々ひたすらにパソコンの画面と睨めっこするあんたの世界にほんの少し介入したかっただけですよ。ねえこっちを見て。コーヒーに角砂糖を落とせば波紋が出来る。かき混ぜれば砂糖は溶ける。スプーンをソーサーに置けば音がする。カチャリ。ごくり。飲み込めば喉は潤う。ほろ苦さは口内に広がる。飲み干せばカップの底の色が見える。ほら見てよ。何もかもはこんなにも分かりやすく反応するのに。

自分があの男の興味の対象に成り得るかどうかという次元の話ではないのだ。私はあの男が分からない。だから嫌い。つまらないものとそうでないものとを彼が分別しているのだとしたら皮肉にも私は前者なのか。それすらも分からない。人差し指とその声ひとつで一警察機関を思いのままに操作できるこの男をどこからどうすれば崩せるのだろう。顔や名前だけで人を殺せる殺人犯にさえ臆せず命を懸けるこの男を、何をどうして支配できよう。
私はあなたを泣かせたくてたまらない。

くすぶる思いのままパソコンに向かって自分の仕事をしていると、ふと自分の視界が薄く陰った。この静かな気配が誰であるかを告げている。振り向かない。出来る限り私も自分の中への彼の介入を許さない。私の指がキーボードを叩く音の上を彼の低い声が被る。

「昨夜から、すこし考えてみたんですが」

返事をしない。作業の停止も試みない。ただ耳だけを背後へ傾ければやはり表情を見せない彼の声が続けるのだ。

「やはり私は、死にたくないです」

指、が。止まる。いとも簡単に私の細胞は反応する。息がほんのわずか、乱れてすぐに回復した。言葉が詰まる。私はこの男が分からない。

「……何、当たり前のこと言ってるんですか」

苦笑まじりにどうにかそれだけ返してみる。私の飲んでいたコーヒーに彼が一粒角砂糖を落とした。波紋ができた。

「はい、ですから」

この男は。一体どんな顔で怒るのだろう。どんな顔で驚くのだろう。どんな顔で笑うのだろう。どんな顔で、泣くのだろう。

「当たり前のことを言わせないでください」


秋が遠ざかる。このときせめて振り向いていればよかったと、じきに私は後悔する。

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