「銀ちゃん」

思えば最初は序の口だった。

○月×日
夕飯時、突然名前が箸が掴めないのと抑揚のない声で言った。
は?何言ってんのお前、箸の持ち方くらい母ちゃんに教わったろ。大して相手にもせず適当に返す。でも掴めないの。そう答えてばかりの名前にいい加減異変を感じて、テーブルに置かれたままだった彼女の箸を手にとり差し出した。ほら、持ってみろって。彼女は俺の手に掴まれた箸をじっと見つめて、それからゆっくりと手をのばした。彼女の掌が箸の周りを覆い、ぎゅっと握り締めたのを確認して俺は手をはなす。からん。掴まれたはずの箸は音を立ててテーブルに落ちた。ほらね。俺の目を見てそう言う名前はため息を吐き、俺はただ目を丸くする。落ちた箸を掴もうとする彼女の指は、すかっという効果音がぴったり当てはまる様子で箸をテーブルを通過していた。よくよく見ればうっすら透けているような気さえした。
この日から彼女は透け始めた。

○月×日
神楽は面白がっている。それどころか透ける当の本人も面白がっている。ほら両手で目隠ししても向こう側が見えちゃうのーきゃっきゃって阿呆か。能天気も甚だしい二人に比べ新八は常識人で助かった。
夢でも見てる気分ですよ何なんですかアレ。俺が知るかよ。透けるって何なんですか透けるって、意味分かりませんよまさか名前さん幽霊だったとか。ばばば馬鹿言うんじゃねえよお前アレだよきっと新種のウイルスっつーか何つーかインフルエンザ的なアレできっとそのうち治るんだよ。どんなウイルスですか、まあ確かに病院には行ってみたほうがいいかもしれませんね、素人よりはいくらか医者のほうが対処法も分かるでしょ。
よし決めた。明日は医者へ行ってみよう。

○月×日
とうとう足まで透け始めた。いよいよ幽霊らしくなってきた彼女を連れて病院へ行く。もしかすると何かの病気かもしれないし、もしかすると彼女は地球人じゃなかったのかもしれない。あらゆる現実的な可能性を探るものの、結局原因はつかめなかった。それどころか医者は名前を診察してまるで健康体だよとほざきやがった。お前の目は節穴ですか!どう見たって透けてんだろ、明らかに異常だろ!そう主張したもののどうやら医者には彼女の姿が透けては見えなかったようだった。いや、往来を彼女と一緒に歩いても誰一人振り返ろうとしなかったことを考えると、自分たち以外の人間には彼女の異常が見えないらしい。
ますます厄介だ。夜になると頭も透け始めたようだった。彼女は面白がっている。

○月×日
困った。ついに全身が透けて何もかもを透過してしまう姿となってしまった彼女には、もうとても欲を吐ける状態じゃない。もう穴が穴の役割を果たしてくれねーんだ、どうしたもんかね。そんなことを昼間遠まわしに嘆いてみたら新八に怒鳴られた。あんたも大概能天気じゃないですか!って馬鹿。これほど重大な問題もないだろう。大体お前こそ本当に事の重大さが分かってんのか。セックスができないのは百歩譲って置いといたとして、何に対しても触れることを許されなくなった彼女にはもう家事も何もかもがかなわない。
困った。本格的に万事屋史上最大の危機だ。

○月×日
うっすらと透けていただけだったはずの彼女が、だんだんと薄くなってきた。相変わらず彼女はへらへらと笑っている。風呂に入ってると突然壁からすり抜けてやってきて、やあだなんてのん気に挨拶しやがる始末。こんなことが何日も続こうもんならいい加減心臓に悪い。他人ん家泥棒に入り放題だねえ、あ、でも何も掴めないから何も盗めないや、てへ!ってお前。笑えねえ。

○月×日
相変わらず透けたまま。それどころか最近では足が床からほんの数センチ浮いているようにも見える。いよいよ姿形は幽霊らしい。お前まじで何なの?わき出る脂汗と共にそう問えば、何なんだろうとやはり笑った。へらへら。へらへら。彼女がよく分からない。明日の我が身が怖くはないのか。

○月×日
右隣で一緒にテレビを観ていたと思っていた彼女が実は左隣にいたり。布団の上で寝ていたと思っていた彼女がいつのまにか畳の上。
油断すると彼女の存在を認識できなくなってきた。目を凝らしてようやく見えるほどに彼女の体は透けている。
彼女は笑わなくなった。
だけど泣くこともしない。ただ気付けば何か考え込むように宙を眺めている。足音も気配すらなくなった彼女はこれからどうなるのだろう。近頃は声も聞き取りにくい。

「このまま消えたりなんかしねえよな」

○月×日
目に見えて彼女の元気がなくなってきた。空気にうっすら色がついている程度にしか確認できない彼女の姿に、いよいよ不安が膨張を始める。そばにいても呼吸を感じない。テレビをつけていたら声にも気付けない。
どうすりゃいいんだ。
思わずため息を吐くと彼女は寂しげな顔をした。希望を失った表情をしていた。
なあ頼む。消えたりなんかしないでくれ。そばにいてくれ。まだ俺には、

○月×日
彼女の下半身がついに“消えた”。辛うじて確認できるその姿を呼ぶ。

「名前」

彼女は返事をよこさない。下から少しずつ消えていく彼女の姿に焦りがつのる。

「どこ行くんだよ、名前」

どこだろう。きっと世界の裏側へ。そう呟いた彼女の目に光はない。俺を見ることもしない。きっと何も見ていない。

彼女とは当たり前に毎日を過ごしてきた。初めて会ったのは居酒屋で、互いに酔ったテンションでやけに意気投合してそのまま勢いで夜を過ごした。後悔はなかった。ただ彼女が笑うのは心臓の近くがやけに生温く心地良く、一度で手放すには惜しいと思った。いつのまにかそばにいるのが当たり前になっていつのまにか俺の世界に馴染んだ。互いに馬鹿をし合って互いに笑い合う。それが当たり前だった。当たり前すぎて、分からなかった。

「行くなよ、名前」

彼女はついに目を閉じた。こちらへ返事もくれなくなった。だんだんと、薄く。確実に消滅へと近付いていく彼女に俺はたまらず叫んだ。

「行くな!まだ必要なんだ、俺には、お前が!」

好きだから。そう叫んだ。瞬間だった。ずしんと圧し掛かる重みに思わず倒れる。唖然とする。仰向けになった俺の上に跨っていたのは、目を真ん丸くした名前だった。透けてはいない。くっきりとそこに存在している。

「……治った」

自分のてのひらをまじまじと見つめながらそう呟いた名前は、やがて涙ぐみながら俺のズボンを脱がせ始めた。あまりにマヌケすぎたその後頭部を俺は思わず殴ったけれど、本当はすぐに抱き締めたかった。それから代わりに彼女が俺を抱き締めた。

「私も!大好き!」



○月×日
「何だったんでしょうね、結局」

新八が言ったのにさあ?と適当に返しながら、名前は飽きもせず俺の指を噛んでいる。ひたすらに触れられる喜びを噛み締めている。
先日までのことが嘘のように、俺たちはまた日常を刻み始めた。安心だなんて言葉でひと括りにするには勿体無い気さえした。
本当に何かの病気だったとか。さあ分かんない。名前さんって本当に宇宙人なんじゃないですか。さあどうだろう。
ただひとついえることは。彼女は顔を上げて続けた。

「それほど重かったってことじゃないの、銀ちゃんの愛の告白は」

現世へ私を縛り付けるほどにね。いかにも嬉しそうに言う彼女にため息が漏れた。馬鹿も休み休み言ってほしい。

「ねえもう一回言ってみせてよ」
「あ?何を」
「今度は好きじゃなくて愛してるがいいな」
「バッカお前ェ、あんま調子ン乗んなよ」

つーか俺好きなんて本当に言いました?記憶にないんですけどアレかね、それこそその瞬間趣味の悪い霊でも俺にとりついてたんじゃねーの。そっけなくそう発言するや否やだった。神楽が酢昆布をかじる音が突如途絶える。

「……あ」

ふたたび彼女の身体は透け始める。まだうっすらと。少しだけ。
頬をひきつらせる俺へ一言。どうやらここからが正念場だね。彼女はへらりと笑った。

馬鹿も休み休み言ってほしい。


透けるすけるける助ける
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