三周年 | ナノ

五十音で表現するなら「け」に濁点。あからさまにそんな表情をされてしまってはさすがにあまりいい気分ではない。

「……なんでいんの」
「ああお帰り孝介、早かったのね」
「今日部活ミーティングだけだったから」
「それにしては遅いじゃない」
「野球部の奴らとマック行ってたんだよ。つーか名前何してんの」

私は孝介とおばちゃんの会話を背中で聞きつつ、リビングのソファでひたすらにテレビのワイドショーに集中していた。おばちゃんの声は年をとった。孝介の声は、低くなった。

「名前ちゃんとこのお父さん、いま出張中らしいのよ。それにほら、お母さんも仕事で夜遅いじゃない?だからいま夕飯は自分で食べてるんですって。さっき玄関先で偶然会ったから、一緒にどうかしらって私が誘ったのよ」

振り返ってみると孝介と目が合った。少々顔が歪んでいるところを見ると、どうやらあまり快く思われてはいないらしい。いつも部活で帰りが遅いらしい孝介とは、私も顔を合わすことをあまり期待していなかった。そういえば同じ学校なのに顔を見るのはしばらくぶりだ。学年ふたつ違うとこうも接点がないらしい。

「孝介、髪伸びたね。似合ってないよ」
「うるせーよ、お前こそその髪の色センス悪ぃ」
「孝介にセンスがどうとか言われたらオシマイだ」

うるせーよ、と再び言われたので素直にこれ以上は口を開かずにおく。テレビではアナウンサーが、今日は今年初めての三十度超えだったと伝えていた。
上にいるからメシ出来たら呼んで、と愛想のない声で言ってリビングを出て行った孝介に、おばちゃんは慣れたようにハイハイと返事をした。ちらりと見えた後姿は、すこしだけ大きくなったように見える。リビングの窓に映った、染めたばかりのピンクブラウンはムラなく綺麗に私の肌を睨んでいた。

「ねえおばちゃん、あと何分でご飯できる?」
「んーそうねえ、あと十分十五分ってとこかしら」
「私も孝介の部屋行ってていい?」
「ああそうね。そうだ丁度いいわ、名前ちゃん孝介に英語教えてやってくれない?来週テストみたいなのよ」
「んー、いいけど十分十五分じゃむりだよ」

できるところまででいいから、と言われて頷いてリビングを出て行く。廊下に出たところでおばちゃんに手伝わなくてごめんと伝えるのを忘れたことに気付いた。後でお礼とまとめて謝ろう。

この階段を上るのもずいぶん久しぶりだ。昔はよく孝介の兄貴(そういえば私もずっと兄貴と呼んでたから名前は知らない)と三人で遊んでいた。というか兄貴と二人で孝介をいじめたおしていた。主に主犯は私だ。実際のところ、嫌われる心当たりも十分すぎるほどにある。

階段を上りきって奥のほうの扉を開けると、中にいた半裸の孝介が乙女のような声を上げた。

「う、おわ!ノックくらいしろよ!」
「気色悪いなー、小娘じゃあるまいし」

どうやらお着替え中だったらしい。スマンスマンと心のこもってない声で告げて、ベッドにどかりと腰をおろす。すれ違ったときに、少し汗のにおいがした。

「何しに来たんだよ」
「来週あんた試験でしょ。スパルタ教育しに来てやった」
「そんなもんいらねーよ。つーかおまえも試験あるだろ」
「私は出来がいいから試験前にわざわざ勉強とかしないもん」
「西広先生と同じ理屈だ……」
「西広なんて先生いたっけ?」
「いや、野球部の友達」
「あんた同級生のこと先生とか呼んでんの?そのいじめられっこ体質いい加減なおしたほうがいいよ」
「別にいじめられてねーよ!」

まあそうだろうね。万が一私以外に孝介のことをいじめるようなやからがいようもんなら、私の持つ全勢力をもってその連中を殲滅する。愛護心とかではなく、単におもちゃを奪われた悔しさのようなものだけど。だけどそんなこと口にしてしまったらコイツはまたあの嫌悪感いっぱいの顔で私を睨んでのけるんだろう。着々と大人へ近付きつつあるその顔でそんな顔をされると、なんだか少し、ぎくりとする。

勝手に孝介の鞄の中を漁っていると、何やってんだと背中を蹴られた。英語の教科書や参考書を求めていたのだが、それらしいものが見つからない。聞くと明日は英語の授業があるから置いてきた、と。明日英語の授業があることイコール教科書を置いてきていい理由には繋がらないのが引っかかる。仕方がないので机の上を漁って、教科書の内容に沿った問題集を見つけ出した。まだ一度も開かれたことがないようにピカピカだ。冒頭近くのページを適当に選んで差し出す。孝介はもう着替え終わって中学のときのジャージ姿になっていた。

「んじゃココやって」
「やらねーよ。つーか何で試験範囲知ってんの」
「高一の一番最初の試験だよ。そんなの誰でも見当つくじゃん」
「つーかもうそろそろメシできるし」
「ここ終わらせないと食べちゃだめだから。じゃないと電気あんまね」
「鬼か」

スパルタって言ったじゃーん。おどけるように言ってベッドの上に寝転んだ。孝介はうんざりそうにため息を吐いて、ベッドを背にしてあぐらをかく。テーブルの上に開かれたその問題集と真剣ににらめっこしている横顔が見えた。孝介は、髪が伸びた。背も伸びた。声も骨格も、まるで男の子みたいになった。ベッドのシーツから孝介のにおいが鼻を甚振る。意識が、まるで奇妙に宙を浮遊し始めたので、私は数度ぱちぱちとまばたきをした。こうすけ。呼ぶとあーとだるそうな返事がかえる。

「あんた、今年いくつだっけ」
「は?何だよいきなり、十六だろ」
「うん、そして私は十八だ」
「知ってるけど」
「私が中二のときは孝介小六なわけだよね」
「それが?」
「でも、私が二十五のときは二十三なわけだ。これってちょっと、おかしくない?」
「はァ?何が?」

だって、何だか。
後ろから孝介の襟足をひっぱった。うぜえと言われた。本当に勉強させる気があるのかとも言われた。正直なところ、孝介が試験でどんな点をとろうと私はどうでもいい。

こうすけ。次に呼んだら今度は返事をもらえなかった。

着々と問題を解いていく孝介の指は骨ばっている。ためしに自分の手を顔の前に持ってきて眺めてみると、ずいぶん丸みを帯びて見えた。小さく見えた。
ベッドのシーツに顔を埋めて息を吸い込むと、孝介のにおいが鼻腔にぐんと広がった。吐き出す息は震えていた。
孝介の後姿を眺めながら、もう一度襟足をひっぱる。ぐい。どうやらもう完全に無視だ。それに不満がっている自分の真意に気付く。本当は襟足をひっぱりたいんじゃない。本当はその真ん丸い後ろ頭に顔を埋めたい。首筋に噛み付きたい。生意気ばかりが飛び出すその唇を、なめたい。
うっかり想像して下半身が熱くなった。奇妙だ。ありえないことに私は、孝介ごときに今まぎれもなく欲情している。

「……私が八十のときは、七十八かあ……」
「おまえはそんなに長生きしねーよ」
「そうかもしれない」
「つーか出来た」
「えっはやいな!」

追い抜くことはできなくとも、もうきっとすぐ真後ろまで来てるんだろう。今にも肌に触れそうなスリルにおそらく私は高揚してる。(はやまるな、今にしずまる今にきえる)
ごはんできたわよー。下の階からおばちゃんのまのびする声が響いた。


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切ないけどほんの少し甘いきゅんとくる泉
泉以外全然リクエストに沿ってません。殴っていいですすみません。私が泉を書くとこうなりますきゅんとくる甘さって何だろう…もうひとつの雲雀でリトライ…できるかな…
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