「……一度先生と来たかったんです、旅行……」
「上野。分かるけど人前ではもう少し慎めよ、な?」
「分かってますよ、私も彼氏にバレると怖いんで。二階のトイレ行きましょう? あそこ従業員専用だったんであんま人目つきませんよ」

 その男性教師(三十代、既婚者子持ち)と腕を組むのは新条の彼女である上野咲菜だった。咲菜も咲菜で、あの男には飽き飽きしていたらしかった。あいつの心が自分から離れている事など承知していた。だが、自分が『健気で最後まで尽くし続けた』被害者でいる為にも、別れ話を切り出す事はしなかった。相手は黙っていてもモテるハイスペックな男だ、そんな男に弄ばれて一時の退屈しのぎとして捨てられた可哀想な女でいるのが賢明だろうと考えていた。

「ねぇ、センセー」
「け、けどなあ……もうちょっと安心できる環境じゃないと俺の息子ちゃんも萎えたままってなものよ……」
「そうですね、先生、これって不倫ですもんね」

 咲菜が性悪な笑みを浮かべるとスカートのポケットからスマホを抜き出した。映されていたのは教師の破廉恥な行為中の姿で、咲菜は殊更に邪悪に微笑んだ。

「この変態教師。ロリコン。死ねばいいのに」

 この教師、こうやって弱みをネタに罵られると興奮するらしい。全くとんだド変態野郎だ、そしてそれに快感を得ている咲菜も存分に変態ではあるだろうが。お互いいい趣味だ、その辺に関しては。何やら外が騒がしい気がしたが、今の二人にとってはどうでもいい話だった。結論、ヤレたらあとはもう何でもいいわけである。




 天候に著しく乱れが生じ始めている。尋常でない程の霧が、こちらの推測を遥かに上回る速さで辺りに浸食し始めていた――。

「てめえさあ、前々から思ってたけどムカつくよなあ」

 あれから一人、外で景色を眺めていた神代を呼び出したのは先程絡んできた女子勢力のようだった。女子は更に人数を増やし、果ては男子生徒まで引き連れて何かされても嫌とは言えない空気を見事に作り出していた。

 用具庫内部で神代は、息をするのも窮屈な人選に囲まれながら眼鏡越しに彼女らを見つめた。ちなみにこの隣の業務員用トイレでは、先程のゲス不倫教師と咲菜が盛り上がっている事なんぞ知りもしない。

「何その眼鏡、イラっとくるんだけど」
「ウザッ。ウザウザウザウザウザ」
「で、さっきの態度だけど何? これ別に呼び出しとかじゃねえから、只おかしいと思った事を指摘してるだけだから」

 壁を背にしながら、神代の視線はまた別のところにあった。それを彼女達はどう解釈したのだろうか、『こいつ、ビビって目を逸らしてる』と言う風な捉え方をしたのか。少し強気になりながら一歩足を進めてきたのが分かった。

「……空」

 神代がぽつり、と呟くのを先頭にいた女子生徒が聞き入れてすかさず反応した。

「え、どーなんだよ。何か言ったかよこの眼鏡地味女」
「? おい、何か外の景色ヤバくねえ」

 背後に控えていた、長髪に緩くパーマをかけた男が呟いたのを封切りにして次々生徒らがそれに反応を示した。

「……マジだ。おい外、赤い」
「うわカッケー、何これ! 霧すげえし、サイレントヒルかよ」

 小窓から見えるその景色が明らかに異様でしかなかった。血でもぶちまけたように真っ赤な空、異常な程に濃い霧、そして真っ赤な地平線――先程までの快晴は消え失せて終末感漂う光景だけがそこには広がっていた。

「何これ、イリュージョン?」
「バッカおめえ、イリュージョンはてんこーだろ。お前が言いたいのってイルミネーションじゃね」
「あっけぇ〜〜! 超あっけぇ〜〜〜! うぉ、やっべー! オラ、ワクワクすっぞー」

 呑気な声色でバカみたいにはしゃぎまわる男子生徒に比べ、女子生徒の方は幾分かシビアなのか戦慄したように息を飲んでいるのが分かる。女の方が現実的なものだ、いつだって――神代もやや肩を竦め、眉根を持ち上げつつそれを見張るように眺めたのだった。彼女の気持ちはもはやそちらに注がれているといっても過言ではないだろう。

「……まずいわ」

 神代がやはり小声で呟いたのを、一同は誰も聞いていないようだった。只、彼女のその態度が気に入らなかったのは確かなようで、手前の女子生徒が身を乗り出し神代の胸倉を引っ掴む。

「ンだてめえこら、誰がお前のタイミングで好き勝手喋っていいっつったよボケ」
「なあおいアヤ」
「何だよ」
「さっきからすげぇ匂いしねえか? 鼻がひん曲がる、このままじゃ」
「確か隣トイレだったからそのせいじゃねえの?」
「そうかなあ……しっかしくっせぇ……オエッぷ!!」

 その臭気はすぐさま強まり、次第に全員の臭覚にも分かる程に濃くなってきたのが分かった。先程トイレのせいだ、という者もいたが明らかにそうではないだろう。この事態を乗組員達が把握していないわけもなく、操舵室の方も騒然となっているようであった。

「せ、船長……おかしいです」
「見りゃ分かるよ……通信長が今陸と連絡取り合ってる――クソ。とにかくどこか着船した方がいいな」
「え、ええ……しかし何だこの酷いニオイ。どんどん酷くなる」

 鼻を押さえながら柏木は手元の望遠鏡を手にする。どこか一時的に着船出来そうな島でもあれば――それから陸と思しき場所を確認して、絶句した。

「ひど……く……」

 思考が一次的に停止して、パソコンがフリーズして動かなくなった時の事を何故か咄嗟に思い浮かべた。

「? 何だよ柏木……」
「臭いの正体、多分あれですね」

 次の瞬間には想像していたよりは冷静な調子で喋れている自分がいて、少しばかり驚いた。が、内心では怯え竦んでいたのが本音だ。だけど、一刻も早くその信じがたい光景を伝えたいがために舌先を動かしていた。

04、そこには死が溢れすぎているから

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