高度警報音のうなる操縦室内に、覆い被さるような少女と女の笑い声が響き渡っていた。誰のものでもないその笑い声に鼻歌が混ざり、辺りを恐怖と絶望で満たしてゆく。

「う……っ」

 消火斧を握り締める船員の手が大きく震えている。恐怖と、それから幾ばくかの緊張ゆえなのか、立ち上がる死体として向かってきたその同僚と対峙しながらじりじりと後ずさったのだった。

「うふふふふ。うふふっふふふふふ」
「くそ……くそッ……うるせぇ……るっせぇえ……さっきから何だよこの笑い声はよぉ……」

 衝撃で首がめり込み、哀れ、骨が折れたまま息絶えた元仲間は少しずつこちらへと足を進めてくる。一歩、二歩、三歩――と、確実にこちら目掛けその足を進ませ、止まる気配は微塵も感じられなかった。動く事だけをインプットされた人形のような動きだった。頭をもたげる強烈なまでの嫌悪感やら恐怖感やらが、駆け巡っては自分から意思という意思を奪い去ってゆく。

「う、うぉおおっ……」

 いきんで斧を振りかぶったはいいものの、足元の血だまりに足を取られ思い切り滑らせてしまった。斧はゾンビの肩口に深々と突き刺さったようだが勿論それだけでは活動を止める事はできない。転んだ状態から這うようにして顔を上げ、船員がすぐ傍にいるそのゾンビを見つめた。

「ご……ごめん……」

 一体何がどうして『ごめん』なのか全くの謎だったが、少女めいた笑い声はそんな彼の失態を嘲笑うように更に強まってきた。只の忌々しい雑音だと思っていたその声が、鼓膜に侵入するようにして忍び込み、もはや手遅れであるという事を思い知らせて来るようだった。

「ごめん……ごめん……、ごめんって……」

 斧が突き刺さったままのゾンビは柄を握り締めると、顔色も変えずにそれを引っこ抜いた。何が起きたのかよく理解していないのか、ゾンビは不思議そうな顔で引き抜いたそれを見つめている。自らの血と肉片がこびりついたその斧を、観察するように見つめている……。

 船員達は緊張感に包まれたままの、地獄の進行を続けた。赤い霧に包まれたその視界の中、座礁しないように何とか旋回しようとするもののそれも限りがありそうだ。

「船長、もう無理です。船を捨てて俺達も出ましょう」

 既に退避命令は出してあったものの、何分この最悪の視界だ。脱出途中で座礁でもしたら溜まったものではない――。凍り付くような緊張感に、心が縛り付けられた。全てが未知である状況。気持ちとしては丸裸で戦場を歩かされているような気持に近い。

「俺は最後までここに残る、それが船長の役割だ」
「それは勿論です……、けど……」
「お前は先に行ってもいいぞ、柏木。むしろお前の腕でこの状況をサポートされるのは不安だ、足を引っ張りかねない」

 自分を突き放す為の分かりやすい嘘なんであろう事は、すぐにわかった。とげのある言い方をして自分を逃がそうとでも言うのか。何とも言えない感情が、柏木の心を揺るがせた。――あんたは死んでいい人間じゃないだろ。死んでいい人間は俺の方だろ。もっと俺の命を粗末に扱えよ。

「柏木、お前モテるだろ」
「……は?」
「死んだら悲しむ奴がいっぱいいるぞって事だ」
「……」

 ああ。
 こういう時にまでジョークを欠かさないところ、本当に彼らしいなと改めて思う。嫌味のない微笑みを見つめながら、そして自分はそういうところを尊敬して、彼にこれまでついてきたのだと理解させられる。……そうか。だったら最後まで自分の忠誠ってやつを貫き通すまでだ。

「船長こそ。……帰りを待ってる奥さんと子どもがいるんですよ。――俺は生憎、恋人にも逃げられた寂しい独り身です。親だってもう何年も会ってませんから」

 上げていた腰をもう一度降ろすと、柏木は再び操縦席へと戻った。

「カッコつけんじゃねえよ、若造」
「……何があろうとも最後までお供しますよ、船長」

 映画や漫画のような死に様なんか迎えられない事くらい理解していた、綺麗な死なんかあるわけもない。だが、逃げるつもりもなかった。後悔もない。驚く程に、今の自分は『死』というものへの感情が希薄だ。ちょっと希薄すぎるくらいだ。

「――しかし……ちょっとレベルが違うみたいだぞ、今回のトラブルは」
「?」

 言いながら船長は右手で機材を操作し、それでいて左手で何かをすっと取り出した。振り返る事もせず腕だけを背後へと伸ばし、数秒のうちにその引き金を引いた。――引き金? その轟音を聞きながら、柏木は自分の素っ頓狂な声を聞いた。

「はっ……!?」

 が、その声も銃声に飲まれ、すっかりかき消されていた。先程のゾンビが傍にまで迫っていたのだ。頭を吹っ飛ばされたゾンビは、後ろのめりに倒れ込んだようだった。

「そ、それ……何でそんなもの……」
「海の上ってのはなあ、いつ何が起きるか分かんねえもんなんだよ」

 薬莢の落ちる音を聞きながら、もうこれ以上何が出てきてもおかしくないような気さえしてきた。次は何が出るんだよ、宇宙人? 未来人? 地底人? H・R・ギーガーがデザインしたようなクリーチャーが船内を這いずり回っている光景が何故かパッと柏木の脳裏に浮かんだ。

「つう事で柏木、お前の役割はコレだ。分かるな?」
「へ……」

 硝煙の立ち込めるオートマチック式の拳銃を受け取りながら、即座に理解した。熱を持ったままのその銃は当然だが初めて握る感触だ、ずっしりと重たいその感覚が麻酔を打たれたようにぼーっとしていた緊張感を呼び起こす。
 ゼンマイ式のおもちゃのようにぎこちなく振り返ると、既に三体のゾンビが室内に侵入してきていた。

「マジかよ……」

 三体――いや、さっき噛まれたんであろう斧を持っていた奴が起き上がり、これで合計四体。ふらふらとした足取りで近づいてくる奴らを見つめながら、ゲームの序盤チュートリアルを生で経験しているような気になった。冷静に見える船長だったが、きっと自分を怯えさせないためにそう振る舞っているだけなのであろう――脂汗が伝うのを覚えて、柏木は唾を一つ飲み下した。

「弾……足りるんすかねぇ……」
「さぁな、切れないうちに仕留めろ。最悪の時用に一発残しておけよ。……それと頭だぞ、頭。頭だけ狙え、他は意味がない」
「や、やれるだけ……頑張ってみます」

(何としてでも、この人を守ってみせる。何としてでも――)

 すぐそこに死への奈落が迫っているのに、気持ちは何故か清々しい。そりゃあゾンビと言えど誰かを撃つ、というか、殺す、というのは気持ちよくはないが誰かを守ろうと思える尊い精神が備わっているのが、嬉しかった。――それは、それだけは決して、悪い気分ではないと思った。



 船員達が、パニックになった乗客達を何とかボートに誘導させている時であった。火の手が上がったエンジンルームの辺りを、一人の小さな……まだ十歳にも満たないんじゃないか、というくらいの少女がまるで追っかけっこでもしているかのように走り回っているのを目撃したのは。

「き、君ッ、何やってるんだよ。危ないぞ!」

 たたたたっ、と壁際にまで走っていった少女は洋風のエプロンドレスを身に着けていた。それは、昔に読んだ『不思議の国のアリス』に出てくるアリスが身に着けているような衣装を思わせた。
 青色のワンピースと白地のエプロンという組み合わせが単純にそれを連想させたのだろうけど、少女は屈みこむとまるで泣いているかのように蹲ってしまった。こちらに背を向けたままでいる少女に心配そうに近づき、船員が問いかけた。

「どうしたんだい、まさか具合が悪いのか?」

 そして、少女の肩に手を置く。動けないというならば無理やりにでも連れて行かねば――そもそもこの子の親は――親は――、
 振り返った少女の顔は、もはやぐずぐずに腐り果てていた。顔面の判別がつかないくらいに、溶け落ちていた。その眼窩はぽっかりと空洞化していて、漆黒の闇が二つ程存在しているだけだった。

「ひっ……」

 同時に、くすくすくすくすとあちこちから少女めいた笑い声がたちまち響き渡ってきたのが分かった。船員が怯え竦み、半歩下がるとその周囲から少女の笑い声に誘われるようにゾンビ達がずるずると足を引きずらせて来たのだった。




「マジでキリがねえな、こいつら。何度でも相手してやるけど」

 倒せども倒せども襲い掛かってくる死者の大群を切り捨てながら、キルビリーが舌打ちと共に言葉を吐き捨てた。船員の格好をしたゾンビを蹴りによる仕込み刃で切り倒し、次いで現れたガタイのいいゾンビの攻撃をロッキンロビンは即座に上体を屈めてかわした。これが恐ろしい程の柔軟性で、見事な股割りであった。
 彼女のその背後から、キルビリーがすかさず刀を両手で振り下ろし腕を振りかぶった姿勢のままでいるゾンビの首を切り落とした。傍目から見れば随分と息の合ったコンビネーションである、お互い会話せずとも行動だけで意思の疎通が取れているのがよく分かった。

「……っ!」

 那岐が何かに気付いたように顔を上げるのを見て、キルビリーが反応した。

「どうした、那岐」
「あっちの部屋……、誰かが襲われているみたい。……少し見てくるわ」

 返事を待たずして駆け出した那岐を見つめながら、キルビリーが首元のネクタイを緩めつつ呟いた。

「あいつ、あんなキャラだっけ?」
「……さあ」

 そしてその状態からすっくと起き上がり、ロッキンロビンが肩を竦めながら答える。その一連の動作といい、無表情に殺しを全うするだけの殺戮マシンのようですらあった。



「う、うぉおお〜〜! 七瀬ぇ、捕まった! たすっ・助けて〜〜!」
「まっ、前やん! 前や〜ん!!」

 果敢にも巨漢ゾンビに立ち向かった七瀬と前田だったが、前田が自分よりも更に大きな男子生徒に捕まってしまった。ゾンビも生前の能力差などが関係するのが個々によって違いがある事が、ここへ来て分かった。只ウーウー唸りながら襲い掛かってくるだけしかバリエーションのない奴もいれば、それこそ生前に格闘技でも体得していたのかそんな動きで追い詰めてくる者もいるみたいだ。

「クソッ、こいつめ……!」

 哀れにも拘束されてしまった彼を救出せんと七瀬が身を乗り出したものの、体格差は歴然であった。巨漢ゾンビはあっさりと小柄な七瀬の胸倉を掴むと片手で横に放り投げてしまった。腰骨をしたたかにベッドのスプリングに打ち付け、七瀬は這うようにしながら二人のもみ合いを見上げた。

(だ、駄目だ。息ができない……何だ――これ……)

 体育の時間、柔道の時にデカイ相手に絞め落とされた時も流石にこうはいかなかったような気がする。今思うとあれは相手を見て、手加減してくれたのだろうなと思った。思った。思……った
……、駄目だ。音もなく、静かに意識が遠ざかる。

 七瀬が自身を苛む闇と格闘しながら、何とか意識を総動員させようとしてみる。……全くの無駄だった。前田の情けない声を聞きながら、その意識が七瀬から離れようとした時だった。

「オラぁアぁあ!!」

 叫びと共に現れた声に、目覚まし時計に叩き起こされたが如く七瀬が目を見開いた。あと五分、五分だけだから、とウトウトしていたのを無理やりにでも起こされた時と似ているなと思った。

「っ……!?」
「し――、新……条、」

 その手には大き目の中華用フライパンが握られており、思い切り振りかぶったその一撃は巨漢ゾンビの不意を突くのには十分すぎた。巨漢ゾンビと言えども流石に不意打ちからの攻撃には態勢を崩し、がっくりと膝を突いたのであった。

「ググ、グ……」
「は……っ、は――、いいぜ。いいよ、いいよ」

 助けて、くれたんだろうか。彼は。

「お前らのその偽善……手伝ってやるよ」

 お礼を言う間も挟まず、新条が言った。

「俺はここで死んでいい人間じゃないからなッ、これでSNSに人助けネタ沢山あげりゃあ最高じゃねえか! オイ!」

 何かクスリでも決めてるんじゃないかというくらいのハイテンションぶりで、新条は更にフライパンをゾンビの後頭部めがけてスマッシュした。その一撃が元になり、ようやく倒れたゾンビの身体を跨ぎ、今度はその顔面めがけてフライパンの側面を押し当てた。すると、肉が炙られる音がして同時に嫌な臭いも立ち込めた。

「グググググググ」
「ぶははははっ、お前の為にわざわざ熱してきてやったんだぞ。特別に手間暇かけてやったんだぞ、喜べ!」
「……、こ、こいつ何かちょっとヤバくねえ?」
「……」

 前田がドン引きそのものといった顔で呟き、倒れたままそれを見つめる七瀬を起こしてあげた。熱したフライパンが剥がれ、ゾンビの巨体がどさりと床に落ちた。そのはずみで割れた頭部から鮮血に混ざって脳漿や名前もよく分からない組織体がうどん玉のようにドロンと零れ落ちたのが分かった。

「うっ……」
「おい、てめぇら」

 前髪を掻き上げながら、新条が呆然とする二人を見た。

「俺を連れてきな。……大丈夫、別に背後から襲ったりとかしないから」
「え、ええ!?」
「偽善者ども、俺を救ってみろよ。助けられるうちはみんなを助けるんだろ? なあ?」

 若干乱れたその髪をどこか神経質そうに撫でつけて、新条は笑い笑いに告げた。

「って、いやいや! いや!……お前みたいな何か危ないのと一緒に行動なんか出来るかよ!? どぉおおーせアレだろ、お前、こういう状況で『殺人の楽しさ』に開花して化け物殺しまくるうちに逆襲されて死ぬようなタイプなんだろっ、お前! いるんだよなー! デスゲームものに必ず一人はそういう……」
「ざけんな、そういうつもりならとっくにテメエから殺してるってんだよウスノロデブ」

 そしてやっぱり半笑いを浮かべて(が、断じて目は笑っていないように見えた)、新条はフライパンで前田を不躾に指した。

「生存確率上げるには仲間がいた方がいい。盾代わりにでも出来るし、逆に言えば俺をそうしても構わないぜ。無事にお互い脱出できるまでの期間は、そういう形でもいいから協力し合おうじゃねえか? なあ、偽善者その一」
「……、確かに君の言う通りかもね。今みたいにゾンビに襲われた時、二人ではどうしようもない場合もある……ってのが分かったから」
「なっ、七瀬、本気なの、それ!?」

 驚く前田だったが、そう言いながらも七瀬はまだ少し悩んでいるといった風であった。

「――ここを無事、出るまでだ」
「賢明なご判断だよ。俺、結構役に立つぜ?」

 くっく、と喉の奥で笑いながら口元を歪ませる新条だったが、七瀬は何だかひどく脅されているような気持ちになった。

「……実際、人数は多い方がいいと思う。でも、ここを出るまでの間だけだからね」

 ゆっくりと頷きながら七瀬が返すと、新条は歩きざま、まだ少し息のあったゾンビをもう一度裏からぶん殴った。それを見ると、激しく内臓の付近が痛んだ。まるで自分がその暴力を与えられてしまったかのような、幻覚的な痛みを覚えた。




前田君はメタ発言が多いキャラです。
メタ発言やめろ。
そして邪神(?)ファミリーいいよな〜コレ。
中二丸出しでさいこうや。
日本刀でこういうゾンビ切り刻む系のアクションって
何が始まりなんだろ? ブレイドとかかなぁ?
ブレイドおもしれーけど主人公の黒人が
『違う、そうじゃない』の人に似てるなーって
思ってたらコラ画像があってしかも普通に
気付かないくらい自然に溶け込んでたから
コラって気付いた時涙出るくらい笑った。

10、笑うしかない

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