貰った合鍵を差して開いたドアの向こうはひっそりとした闇だった。ほんの少し近くのものが見える程度の部屋はひんやりとしている。窓が開いているのだろう。微かに外を走る車の音が聞こえる、それ以外には、時計の秒針がかちこちと動く音しかない。そこに生きているものが存在しないような空間。一歩、また一歩と、足を慎重に踏み出すものの、綺麗に片付けられていて足先に物がぶつかる事はなかった。
夏野は普段から綺麗にしていた。綺麗好きである。うん、いいことだ。だけれど、こういう時にはそういったあまりにも綺麗な部屋と言うのはいささか人を不安にさせる。壁に手をついて恐ろしい何かを見に行かなければならないような気分になりながら、そうっと歩いていると明かりをつけるスイッチに手が当たったが、明かりをつけてこの場のすべてを見ることが恐ろしく、慌ててスイッチから手を離し闇に包まれた部屋を先ほどより足早に歩きだした。
カーテンの閉められていないマンションの小さな一部屋に行くまで玄関からは近すぎるほどで、少し先には月明かりが僅かにベッドの角を照らしていた。

ベッドまでおそるおそる近づいて、おりょ……。あきれた。気持ちよさそうに眠っている。それでこそ、お前だ夏野。まったく…。あんまりにも気持ちよさそうなので、ふぅー、と長い、深呼吸にも似たため息が出た。皆で心配しすぎたかなぁ、なんて思いながらよっこいしょと床に座りベッドに背を預け、苦笑いしてしまう。肩の力が抜けて、代わりにどっと疲れがきた。
俺が思うほど、夏野は弱くはなかった。よかった。近くに部屋の蛍光灯を点けるリモコンがあるのに気づき、すっかり安心しきった俺はピッ、と電気を点けた。

まったくなぁ、と振り返り、俺はゾッとした。顔が、夏野の顔が、真っ白なのである。唇は渇いてひび割れていて、やはり、真っ白なのである。俺は慌てて夏野を呼んだ。

「おい、夏野、おい、おい」

返事がない。頬をぺちぺちとたたいてみる。おい、なんだ。おまえ、まっしろだぞ。

「おい、なつの…。」

あんまりにも、その姿は白く、綺麗なのだ。揺らしても声ひとつ上げないくたくたの体。触れた頬は川の水よりも冷たい。いよいよこちらの息がうまく出来なくなってきた時、ふと、頬を叩く腕の下で夏野の胸が規則正しく上下しているのに気が付いた。

「これって……、生きてるんだな…。」

息、してる。夏野お前、生きているのか。頭の中が一瞬まっしろになったじゃないか。
煎餅布団を掛けている腕はまだ生ぬるい暖かさで、ふっと気を抜いたら曖昧な体温が消えてしまいそうな気がして手をぎゅうっと握った。


とりあえず生きていると安心したものの、ふと、まさか睡眠薬といったものの類を大量に飲んだのかと慌ててごみ箱を漁ってみたが、何もなくテーブルの上はコップひとつ置いてあるだけでそれらしき物を見つけられなかったので、飲んでいないのだろう。
一先ず胸を撫で下ろし、冷蔵庫も見てみたが、普段から飲料以外の物が少ししか入っていなかった冷蔵庫には、数日前が消費期限のパンが入っているだけで、あとはやはり飲料ばかりで何も入っていなかったが、夏野があれから食事を摂っていないという事は分かった。あの日、俺があんな事を言わなければお前はこれを食べていたのか。
ちくしょう、生きててよかった、なんてどの口、いや、心で言えたものか。愚かにもほどがある。

俺は情けなくて、悔しくて、悲しくて、心細くて、仕方なかった。ごめんな、ごめんな、と、涙でぐしゃぐしゃになりながらベッドの上の夏野に何度も土下座した。
情けない。慰めてやろうなんて言っていた自分が恥ずかしくてたまらない。周りから見たら滑稽な姿だろう。笑ってくれ。握った拳が掌に食い込んで恐ろしいほど血を流してしまえばいいと思う。絶望しただろう。苦しかったろう。嗚咽は空中に上がっては消えていくだけだった。他に、声はしない。
俺は、彼のたったひとりの親友で、好きな人だったのに、同時に、どちらも失わせてしまった。俺が、彼を壊してしまったんだ。部屋に入る前の勇者気取り気分は何処かへ消えてしまった。
ごめんな、ごめんな、ごめんな、ごめんな、ごめんな、はやく、目を覚ましてくれ、はやく、はやく、はやく、ごめんな、ごめんな、ごめんなと、そればかり思い、なつのぉ、あさだぞぉ、と言った言葉は泣き声に消されそうに小さく。

「あっ、あ、あぁあ…、―…、なつのぉ」



ただゴミみたいに床に丸まっていた。啜り泣いて、俺は汚らしく物乞いするように夏野の名前を呼び続けていた。空は朝焼け。
いくら時間が経った。夏野は、まだ眠り続けている。揺すって起こそうとしたが、可哀相な気がしてやめてしまった。
情けない俺はせめて起き上がろうと、再び背を預けたベッドにもたれかかって、めそめそと泣いた。

お前が返事をしてくれない事が、すごく怖いと、感じた。何度呼んでも、声が、夏野に、目の前にいるのに届かないんだ。はじめて会った時は、返事なんてなくても平気だったのに、…、。今は、それが苦しい。酷く辛い。
命ってなんだよ。そんな簡単に捨てないでくれよ。俺はもう十分わかったよ。生きてるってことが当たり前じゃないってこと。お前だって、一緒にいて、平気そうな顔してたって、例えば、最後に見た顔が笑顔だったとしても、離れて、次会う時にまでにはちゃんと生きてるって確実な答えなんてないって事だ。アッと、死んでしまうのかもしれない。
考えると堪らなくおいていかないでくれ、とベッドにしがみついた。俺の身体もすっかり冷えきってしまっていたが、撫でた夏野の頬のほうがまだまだ冷たい。

唇が、痛そうだったのでポケットに入っていたリップクリームを夏野の唇に押し付けてぐりぐりと塗った。少し血が滲んで、そこだけ生気を取り戻したように見える。リップクリームはいつでも使えるように枕元に置いてやった。
どこかのお姫さまみたいに、口づけしたら起きるのかなぁ、なぁ、起きてくれよ。だれかの口づけを待っているのか?そんなもの待っちゃいないだろう。
そんなものは、待ってなどいない。その時が来るまで眠り続けているのだ。
唇から溢れ垂れてきた血を指で丁寧に拭く。あたたかい血だ。あぁ、夏野よ、死神っていうのは、今のところ想像上でしか存在が出来ない生き物で、実際にこの世界にはいないんだよ。残念ながら。
きっと、眠りつづけて、たまに水を飲んで、また眠り続けて、そのうちに死ぬのを待っているのだ。

眠っている間に死神が命を掻っ攫っていってくれたらどんなにいいかと思ったんだろう。










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