満員電車ほど窮屈で息苦しいものはないだろう。
午後6時。
ちょうどサラリーマンが帰宅する時間に乗り合わせてしまった。
ぎゅうぎゅうのすし詰め状態で何十分、揺られた事か。
幸いにも俺は窓に面した方にいて外の風景が眺められる。
退屈しのぎにはなった。
各駅で電車が止まり、人が出ていき入ってくるの繰り返しだ。

とある駅に着いたとき、一際目をひく男が現れた。
背は雪男くらいあって、艶のある黒髪。
文武両道という言葉がよく似合いそうだった。
男は俺の後ろに立つ。
暑苦しい電車の中でも涼しい顔をしている男が羨ましく思えた。

今日の夕飯は何にしようか雪男の好きなものを作ってやろう。
我ながら優しい兄だと思った。
そんな他愛のない事を考えていた時だ。
ゆるり、と尻を撫でられた気がした。
俺は咄嗟に後ろを振り向く。
そこには、あの男しかいない。

「……」

いやこの色男が同性の俺の尻を触るはずがない。
寧ろ男の方が、中年の会社員に尻を撫でられそうだ。
俺は気を取り直し外の風景に再び目を向ける。

「君、可愛いね」

ぼそり、と耳元で囁かれる。
そんなに低くない声だ。
視界の端で黒髪が揺れる。
間違いない、あの男だった。
俺は怒鳴り付けてやろうと思い振り返ろうとするも、呆気なく両腕を後ろで掴まれる。

「細っこいな」

男の細くしなやかな指がワイシャツの釦と釦の隙間から侵入する。

「やめっ、離せ!」
「こら、あんまり煩いと周りの人に気付かれちゃうよ?」

クスクスと男は愉しそうに笑う。周りに気付かれるくらいなら男に触られる方がマシだと一瞬だけ考えてしまった自分が恥ずかしい。俺が女だったら、悲鳴を上げて周りに助けを求めるのもありだ。
俺は男だ、しかも触ってきた奴も男。男、男、男である。
助けてなんて言えるはずがない。男が胸の突起を弄る。
情けなくも身体は素直に刺激を受け取った。

「っあ、ゃだ…」
「声も可愛い」

耳に生暖かいものが触れる。
それはねっとりと熱くて、ざらざらしていた。
その感触に肌が粟立った。

「あっ…」

しっ、と男は人指を立てて静かにするように促す。
自分から仕掛けておいて静かにしろなんて、矛盾している。
俺は地団駄を踏んだ。
俺なりの反抗心を男に見せてやりたかった。

「ふぅん…悪い子」

男は意地悪く笑う。
ガタガタと電車と同じように俺の脚も震える。
早く早く電車から降りたい。
この恐ろしくも美しい男から逃げたかった。
次は正十字、正十字とアナウンスが耳に届く。

「ここで降りるの?」
「お前にはカンケーないだろ」
「…残念だな」

男はあっさり俺から離れていく。ドアが開く。
人込みに混じって俺もホームに降り立つ。
振り向くと、車内に男の姿はなかった。
いまだ身体には男の触った感触が残っていて俺は顔をしかめた。

丸腰なんて卑怯だ!
title のま

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