Hand



「私、テツヤになりたい」


なんとなしに呟いた言葉は、しっかりと彼の耳にも届いたようで、隣を歩いていたテツヤは普段は変化の乏しい表情に少しだけ『驚愕』を混ぜて振り返った。

「…何ですか、唐突に」
「ちょっと、思っただけ」

…君は時々、突拍子もないことを言い出しますね。
そう言ってテツヤは微かに笑った。
馬鹿にしているのかと思いきや、そういうわけではなかったようで、テツヤはほんの少しだけ考えるように空を仰いでから、口を開いた。

「…君が僕になるなら、では僕はどこに行ってしまうんですか?僕が君になるんですか?」
「ううん。テツヤはテツヤだよ。私がテツヤに、なるだけ」
「…僕と君が同じ存在になるということですか」
「そうだね」

ただ単に思いつきを口走っただけのそれを、テツヤなりに考えを巡らせてくれたらしい。テツヤは読書家だから、きっと思考の幅は私より広い。私もそこそこ本は読むけれど、半分はテツヤの影響が強い。

「テツヤと私は違う人間だから、例えば今この瞬間に見ているものも聞こえるものも、体感温度だって違うわけでしょ?私、」

テツヤが好きだから、テツヤと同じものを見たいし同じものを感じてみたい。
その台詞を飲み込んで不自然に言葉を切る私を、テツヤはじぃっと見つめてきた。そして一つ息をつくと、はっきりと断言した。


「それは困ります」


「…なんで?」

テツヤなりの、強い否定の言葉。
今度は私が驚く番で、しかし彼は淡々とした口調を崩さないまま、饒舌に言葉を紡ぐ。

「確かに、僕と君は今見えている景色も感じる温度も全く違う他人かもしれない。それを限りなく共有できることは幸せかもしれない。僕だって、君と同じものを見て感じてみたいと思うことだってあります」

「けれど、どんなに君と同じ景色を見ることができたって、同じ温度を感じたって、そこに君がいなければ全部無意味なんです」

テツヤの左手が、私の右手に触れる。あっという間に私を包んだその手は、私よりも一回り大きくて、暖かい。

「こうして君の手に触れることさえできないなんて、僕は考えたくもない」
「…テツヤ」

テツヤは読書家だ。普段から変化の乏しい表情に付け加え、時々彼は小っ恥ずかしいことをさも平気そうに淡々と口にする。
と、同時によく考えなくともちょっと前の私も相当小っ恥ずかしいことを口にしていたことに気付き、頬に熱が集まるのを感じた。

「…ただの例え話なのに、そんなに真剣に答えなくても」

そう言えば、テツヤは普段と何ら変わらない口調でそれもそうでしたね、とだけ返した。きっと彼には私の体温が上昇してしまっていることだって筒抜けだ。ぎゅっと、右手を握り締めると、同じように返してくる感触、そして微かに彼の手も熱を帯びていることに気付いて、頬が緩む。


…テツヤの言うとおりだ。


たとえ、見える景色が違っても、聞こえる音が違っても、感じるもの全てが違ったとしても…彼の隣で、彼と温度を共有できる一瞬があるならば、

「私、ずっとテツヤの隣がいいな」
「奇遇ですね。僕も名前と同じ事を考えていました」


私たちは、充分幸せだ。




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