Sleep



「なんだかすごく、久しぶりな気がする」

 スプーン3杯分の砂糖と、ミルクは目分量で少しだけ。いつも彼女が好んでいるミルクティーを作る手も我ながら慣れたもので、ソーサーごと差し出すとそれを受け取りながら名前はつぶやくように口にした。

「何が?」
「真の家に来るのが、だよ。真、部活忙しかったもんね」
「…そうだったか?」
「そうだよ」

 以前、こいつを家に招いたのはいつだったかと思い返せば、インターハイ予選前まで遡ることになった。なるほど、たしかに「久しぶり」かもしれない。ベッドを背もたれに床に座る名前に倣うように俺も腰を下ろす。

「ウィンターカップ、だっけ?惜しかったね」
「…ああ」
「次は勝てるといいね」

 ウィンターカップ予選が終わり、俺が主将として率いた霧崎第一高校バスケ部は本選への出場を逃した。その結果はもちろん、名前は知っている。俺が教えたからだ。けれど、名前は俺が出ている試合を観に来たことはない。一度だけ、応援に行ってもいいかと尋ねられたことがあったが、それをあれこれと理由をつけて俺は止めた。それに頷いた名前はそれから二度と応援に行きたいと言ったことはない。

 ティーカップを両手で持ち、それを口元へ運ぶ名前を横目に、俺は黙考する。もし、名前が俺の、霧崎第一のバスケを観たとしたら…
 名前はミルクティーを一口含み、にこりと微笑んだ。

「やっぱり、真が淹れてくれたミルクティーが、一番美味しい」


 俺は読みかけだった小説を、名前はミルクティーの入ったカップを手に、しばらく他愛もない会話を重ねていると、一つ二つと名前の言葉数が減っていき、右肩を微かな重みが覆った。
 小説の文字から視線をずらすと、静かに俯く名前が右腕にもたれかかっている。どうやら眠ってしまったらしい。頼りなく両手に収まっているカップの中身はほとんど空になっていたが、そっと名前の手から離してテーブルの上のソーサーに戻しておく。彼女を起こさないように慎重にブランケットをたぐり寄せると、膝の上にかけてやる。

 彼女の存在がここまで大きくなってしまったのはいつからだったか。曖昧なものは嫌いだが、『いつのまにか』という言葉がピタリと当てはまってしまう。それくらい、名前の存在は俺の中で静かに、けれども確実に侵食していった。
 もし、名前が俺の、霧崎第一のバスケを観たとしたら、『悪童』としての俺を見たとしたら…彼女の存在が大きくなってしまったことを自覚してから、幾度となく逡巡してきた。別に、名前の前でずっと猫を被ってきたわけではない。一番素に近い自分を彼女の前では晒してきたつもりだ。けれど、バスケの試合となれば話は別だ。

 …名前は、幻滅するだろうか。

 今まで誰に何を言われようが思われようが、自分のやりたいようにやってきた、それだけなのに、いつしか彼女のことばかりが気がかりになった。決して褒められた話ではないが、ラフプレーこそ俺が今まで築いてきたバスケのスタイル、相手選手の絶望こそが俺の望むものだった。けれど、その絶望が、彼女の絶望となってしまったら…だからと言ってプレースタイルを変えることもできない俺は、彼女の両目を覆うのだ。何も見えないように、試合を見に来るなという言葉で縛って。

「…無防備すぎんだろ、バァカ」

 微かに寝息を立てる彼女に悪態をついてみるが、眠っている名前には聞こえていないだろう。右肩から伝わる彼女の体温に、自然と口角が上がってしまう。
 自分でも笑えてしまう、『悪童』なんて呼ばれている自分が、この彼女の存在一つで、こんなにも満たされた気持ちになるなど。他人の不幸に悦を覚える自分が、こんなにもぬるい幸福に浸るなど、似合わないなんて俺が一番よくわかっている。
 けれども、手放せないのだ。

「好きだ」

 人の不幸は蜜の味。そう言いつづけてきた、他でもない自分の同じ口からこぼれた甘い声に、胸焼けで吐きそうになる。けれど、それすら幸福感に還元されていく。何人ものエース選手の幸福を壊してきた俺の、この幸福はいつか壊されるのだろうと、半ば確信にも似たそれは思考の隅に浮かぶが、願わくはこの穏やかな時間だけは壊されたくないという思いが渦巻く。それはまるで、俺には甘すぎる名前好みのミルクティーを、俺の手で作り出してしまう事と、とてもよく似た矛盾のように思える。
 目を閉じて視界からの情報を遮断すると、名前の息遣いと体温が一層近くで感じられた。…ああ、本当に、『悪童』が聞いて呆れる。


――この穏やかな時間が、ずっと続けばいい、なんて。




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