▼Holiday 『ただいま』 彼女は無言で背後に立つと、自らの指先で俺の背に文字を書き、帰宅を示す言葉を紡いだ。 突然の事にオレは、最初の1文字目で肩を大きく震わせてしまったが、何だかんだでいつものことである。 「おかえり」 彼女へ向き直って、彼女の目を見て、迎え入れる。 すると、彼女は両手を伸ばし、オレの両頬を包み込んだ。 そのあまりの冷たさに、再度驚かされる。 「手袋していかなかったのか?いくら3月だからって、まだ寒いぞ?」 風呂沸かしてあるからと告げれば、1つ頷き、部屋着を手に脱衣所へ向かって行った。 オレは待ちぼうけで付けっ放しだったテレビをそのままに、台所に立つ。 ――彼女がオレの実家で暮らし始めて早1年が経とうとしている。 付き合い始めて3年目にして一緒に暮らそうと提案したのはオレだったし、無論実家を出るつもりだった。 だが、彼女がオレの実家を希望した。 言わずと知れず、彼女はオレの祖父母を心配していたのだ。 かく言うオレも実はそこだけが心残りで、祖父母は送り出してくれる口振りではあったが、いざ彼女の提案を聞くと、酷く感謝していた。 初めて会ったのは、高3の時の病室。 隣のベッドに入院していた気の良さそうなおじさんの見舞いに来ていた娘が彼女だった。 天真爛漫、明るい子で、友達も多そうなのに、夕方、必ず一冊の文庫本を片手に直ぐにやって来る……きっと、放課後、脇目も振らずに真っ直ぐこの病室に来ているのだろう。 おじさんの見舞いにはその子ぐらいしか顔を出していなかった。 同い年の彼女は、オレの姿を認めると話しかけてきた。 男手一つ育ててくれた父が大した事では無いが怪我して倒れて、入院する事になって、心配になって毎日来ているのだと言う。 実際、そのおじさんはその1週間後退院して行った。 しかし変わらなかったのは、何故か彼女がオレの病室に現れると言う事。 「私ね、鉄平君がバスケやってるところ、見たことあるよ」 「!そうなのか!」 「うん。あのねー、桐皇の若松ってヤツ、同じクラスなの」 「おー、あいつか!」 「うん。桐皇はあの時でウィンターカップ?って言ったっけ?とりあえず、あれでお終いだったんだけど、ウチの高校バスケ強いし、やっぱりそんなウチの高校に勝った高校に優勝して欲しかったから、時間が合えば見に行ってたんだよ」 そんな他愛無い話ばかりして、いつの間にか隣に彼女が居るのが当たり前になっていた。 どちらかから告白したとかそう言う感じではなかった。 居心地が良かった、ただそれだけだった。 それから、しばらくしてからだった……彼女の父親が亡くなったのは。 嗚呼、こんな幸せそうな子が、不幸になるんだなと思った。 その後、彼女はまた不幸に見舞われる。 ――突発性難聴だった。 両耳とも、聴き取りが危うい。 今じゃ、話すのも、耳が不自由で音量の調整に不安が残るからと、控えている。 そんな彼女を放っておけなかったと言う事は後からでも何とでも言える。 『お先に』 がらがらと風呂場の戸が開く音がしたと思い振り返れば、彼女は小さいホワイトボードを手に大きな文字で、言葉を返した。 家にいる時は、このアイテムが非常に便利だ。 彼女は綺麗な文字を書く。 昔、習字をなっていたらしい。 元より彼女は、文章が好きだ。 本を読むのも好きだが、言葉を選ぶのも上手い。 頭が良い人なんだと、話しただけで分かる。 それを生かして、今は作家として活躍している訳だ。 「今日の打ち合わせ、遅かったな」 オレは彼女と話す時、出来るだけ大きく口を動かし、唇を読めるように意識する。 それを受け取り、彼女はホワイトボードに書き込む。 『今日は打ち合わせは長くなかったから、リコちゃんに会ってきたの』 想像していなかった名前が突如出て、驚いた。 彼女をリコに紹介したのは最近、彼女と一緒に住む事になった時だ。 リコはリコで、何だかんだ言って、日向と続いているらしい。 同い年だからか、気が合う2人は良く遊びに出かけてたりする。 「元気そうだったか?」 『うん。相変わらず、素敵な人だった』 直接、口にする訳ではないからか、ちょっとベタなセリフもすぐ出てくる。 まぁ、それは多分、耳が不自由にならなくても、彼女なら言いそうだけど。 台所から、温め直した夕飯を、食卓に並べると、隙ありとでも言うかのように、彼女はオレの頬に唇を寄せた。 「甘えたさんだな」 『一応、〆切開けだし、久々に鉄平君とお休み被ったから』 「いつ以来だっけか?」 『かれこれ2ヶ月くらい?映画化の話とかあったから』 「そうだ、映画、オレ行くよ」 『じゃあ、試写会のチケットあげる。舞台挨拶があるから、ずっと隣にはいられないけど』 「挨拶するのか?」 『うん。ここで日頃の鉄平君との発声練習の成果をみせなきゃね』 彼女にとって、今回の映画化作品は、自信作であり、そして何より自分のような耳の不自由な人こそ楽しめるような作品を作りたいと言う意思を表明して、監督と相談しながら手がけた、作品だそうだ。 メディアにもなかなか注目されており、本人の思い入れもあるようだ。 『鉄平君』 「どうした?」 『私ね、今、凄く幸せなの、眩暈するくらいに。でも、たまに思うの、縛ってるかなって。鉄平君、昔、リコちゃんの事好きだったでしょ。言われなかったけど、何となく気がついてた。だから、』 「今、オレが好きなのは、お前だよ」 それ以上に何か必要だろうか。 いつもなら、途中でホワイトボードを奪うなんて強行思い付かない、彼女の数少ないツールだから。 でも、今だけは違った。 抱きしめてやりたかった、言ってやりたかった。 でも、何でだろうか、この伝え切れていないような感覚。 結局、オレは彼女から奪えなかった、抱きしめるのをやめて、少し温くなった彼女の手に自らの手を重ねた。 「今のオレには、お前だけだよ」 『……いらなくなったら、いらないって言っていいんだよ?鉄平君、優しいから言えないのかもしれないけど、」 「ちゃんと、話を聞いてくれ」 『聞こえたら良いのにね』 卑屈になる彼女は、いつも負い目を感じている。 何も悪い事なんてしていないのに。 たまたま好きになって、一生かけて幸せにしてやりたいと思える、ただそれだけ。 「愛してる」 震える肩を抱いてみる。 何だろうな、この距離感。 「なぁ、今日、一緒に寝よう」 隙間を埋めたくて、誘ってみる。 『それは疚しい意味で?』 「別にそれはそれで嬉しいけど、取り敢えず手を繋いで眠りたい」 彼女とのセックスはあまりムードを必要としない。 元々そこまで性欲が強い方ではないし、お互い忙しいからだ。 だが、嫌いではないのは事実。 大体、彼女は恋愛事に淡白だ。 でも依存の関係が保たれる。 そして今日は久々に同じ布団で眠る。 明日かお休みで本当に良かった。 多少の寝坊も、彼女の隣なら贅沢である。 「このまま、一緒におじいちゃんおばあちゃんなっていきたいな」 幸せを噛み締め、共感を求めた言葉に彼女は何も言わず、オレの言葉はただ空中を漂うかのように、夜に溶けた。 『抱かれた肩は涼しく熱く』 back |