Sleep



「タツヤ!名前!お待たせ!」

「タイガ遅い!」

「名前、女の子がそんなに顔をしかめてはいけないよ。」

アメリカ、俺が日本に帰国する少し前の話だ。まだタツヤと仲違いしてなかった頃からずっと一緒にいてくれた女の子。それが名前。アメリカでのキスはスキンシップとして当然のことなのに、彼女にはドキドキしてどうしようもなかった。別にアレックスみたいに唇にしなきゃいけない訳ではない。だから異様な緊張に俺は悩まされ続けた。

「ヘイ、タイガ。そんなに気に病むことないわよ。」

俺より長くアメリカで生活する彼女は、英語での呼び掛けの癖などがすっかり定着してしまっている。あの日もそうだった。俺がタツヤに殴られ、帰国が迫っていたあの日。俺は最後のアメリカでの夜を名前の一家と過ごすことにしていた。

「…俺は間違っていたのか?」

「間違っていたかもしれないし、そうじゃないかもしれない。やってみなきゃわかんないものよ、誰にも。」

名前が投げたダーツの矢は、壁のボードの真ん中に命中した。

「兄貴を失うと思ったんだ、だから俺は…」

「塞ぎ混むのはやめた方がいいと思う。ほら、涙拭いて。」

いつの間にか俺の正面へ回った、いつの間にか大人の女性に何歩も近づいた少女は俺の頬を拭った。

「タイガ、貴方は間違ったことをしたかもしれない。けれど、それは貴方が行動を起こすことのできる強い人だと言う証よ。」

にっこり笑った少女は何処か儚く、妖艶だ。思わず目をそらすと、俺の胸に名前の顔が触れる。

「な、にしてんだ。」

「タイガの心臓の音を聴いているの。見掛けによらず優しい音なのね。」

しばらくそうしていると、寝息が聞こえてきた。どうやら寝てしまったらしい。全く、こちらの気も知らないで。

「おい、名前。起きろ。」

起きる気配は微塵もない。仕方なくベッドに運び、横たえる。寝顔はまるで眠り姫だ。最後に一言寝ている彼女に伝えるくらい、許されるだろうか。たった今自覚した気持ちだけど、それでも伝えていいだろうか。

「名前、好きだ。いつか、いつかきっと迎えに来る。相手がいるならかっ拐う。覚えとけ。」

寝てる奴に言っても仕方無いんだけどな。そして俺は彼女の部屋を後にしようとして、ふと思い出したようにベッドに舞い戻る。キスをしようと思った。我が儘ついでに、アレックスを除くファーストキスを奪ってやろうと思った。息が触れるほど近くに名前の顔がある。触れたい、いっそこのまま食べてしまいたい。そんな欲求すべてを押さえ込み、俺の唇は少女の頬へ落ちる。いい匂いがして、気が狂いそうだ。

立ち上がり、部屋のドアを閉じる。今度こそ、忘れ物はない。そして俺は心に誓う。戻ってきて、必ずこいつを俺のものにする。誰が相手だろうが、構うものか。

俺はまだ知らない。正しく虎のようにまだ見ぬ敵に牙を剥く俺が閉めたドアの先、少女が声を圧し殺し涙を流していたことを。



『頬に逃げた卑怯者』


君の唇にはまだ触れられない。




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