Friend



 「黄瀬なんていなければなあ……」

 放課後までに生物室に運んでおくよう、先生に言われたノートたちを抱えて生物室の前へやってきた私は、誰もいないと思っていた教室内から密やかに聞こえてきた悲痛な声に、思わず足をとめた。

 「黄瀬がいなくたって、お前はたぶん失恋したよ。だから元気だせって」「それはわかってるんだけどさ、でもさ……うぅっ」「失恋して男泣きなんてするなんてお前かっこわるいよ。やめろ」「二人ともひどいな、おれめっちゃ悲しいわ……。黄瀬なんていなければ……」
「さっきからその繰り返しじゃねぇかよ」

 生物室に入るのはためらわれた。声からして失恋したらしい男子生徒は私の隣の席の生徒だ。今私が教室に入っていったりしたら、彼はこのお昼休みのあとに気まずい思いをしなければならないだろう。
 私は少しのあいだ動くことも出来ずに彼らの話声に耳をすましていた。

 「おれがもし黄瀬みたいに顔がよくてスポーツも出来たらさ、あの子はおれを好きになってくれたかな」「黄瀬みたいになれるやつなんてそういないだろ」「あの子のことはもう諦めろって」「もしもの話だよ……」

 友達である黄瀬に対しての愚痴めいたそれらの嘆きが、もっと暴力的だったらどんなにかよかっただろうか。もしそうだったなら、私は生物室に踏み入って「男ならそんな風にこそこそするな!」と喧嘩を売ることが出来ただろう。
 しかしそれらは静かに悲しみに暮れていた。
 だから私は隣の席の男子の気持ちと、友達である黄瀬の立場や生まれながらにして持つ多くの才能と、を思って行き場のない苛立ちのような悲しさのようなもので頭がぐちゃぐちゃになった。
 冬らしく冷え込んだ空気で肌はひどく冷たかったが、心臓は生暖かい血をからだに送り出す。
 黄瀬は今までもこうして沢山のひとに羨望や嫉妬や賞賛をされて生きてきたのだろう。私と同い年の、まだ高校一年生なのに。そんなに沢山のものを背負って、彼はいままで――――

 私は身をひるがえして駆け出していた。ノートの束を抱えながら、氷のように冷え切った廊下の上を夢中で走っていた。
 昼休みということもあって人でごった返した廊下を必死の形相で走る女子生徒を、ほかの生徒はどう思っただろうか。すべての視線から逃げ出したかった。手にうっすらとかいた汗で滑りそうになったノートたちを抱えなおす。

――黄瀬涼太という人物はまわりが思っているほど不真面目で不誠実ではないし、まして努力を馬鹿にしたりはしていない。彼の煌びやかな外見だけが独り歩きをしてそういったイメージがついただけなのだ。
 実際の彼はバスケが好きでちょっとの顔の良い、そして勉強の少し苦手なただの高校生だ。
 どうしてみんな彼を知らないんだろう。さっき失恋を嘆いていた隣の席の男子だってそうだ、彼が黄瀬を見るときの瞳には幾層ものフィルターがかかっているに違いない。本当の黄瀬はそんなんじゃないのに。
 走っているせいだけではない、肺の圧迫感にくらりとする。
 私は黄瀬がいるだろう体育館へと駆けていった。

「黄瀬涼太はいますか!!」

 駆け込んだ体育館にはほとんど人がいなかった。
 私は抱えたノートの束に頬をつけてみっともなくぜえぜえと呼吸を乱した。笠松先輩が視界のはしで握った手の親指をくいと体育館の奥に放った。
 ぱっと顔を上げれば驚いた顔の数名の部員と笠松先輩。そしてその奥に私に背をむけた体勢でシュートを打とうとしている黄瀬が見えた。
 私は笠松先輩に少し頭を下げ、入口のそばにノートを雑に下ろして黄瀬に向かって走った。
 黄瀬は先ほどの私の声にも気づかないほどに集中していたらしい。私が駆け寄ってもまったく気づかなかった。私はそんな彼の集中を邪魔してしまうのはいけない気がして、彼の少しうしろに立ち止まり、彼がシュートするのを待つことにした。
 黄瀬は体をいちど沈ませたあとしなやかに伸びながら3pシュートを放った。見惚れるほどに美しいそれに私は思わずほうっと溜息をつく。やっぱりバスケをしている黄瀬はかっこいい。

「黄瀬!!」

 大声で名前を呼ぶとネットをくぐったボールをぼんやり見ていたらしい黄瀬は、慌てたように振り返った。

「名前っち?!」
「黄瀬!!」

 もう一度名前を呼ぶ。ぐいっと間合いを詰めてのけぞる黄瀬なんて無視をして、彼が首にかけていたタオルを引っぱった。

「私さ! 頑張ってる黄瀬はとってもかっこいいと思うんだ!!」

 黄瀬は状況を飲み込めなかったらしく呆けたような顔をして「かっこいいって言われるのは慣れたッス」なんて言う。
 ちょっとイラッときたけれどそれには構わずに、私は黄瀬に少しかがむように頼んだ。身長の低めな私は黄瀬を見上げているのが辛かったからだ。

「あのね、黄瀬が本当はガラスのハートの純情ボーイだってことも、私知ってるんだ!」
「は!?」
「黄瀬ってさ、まわりに誤解されやすいよね。でも私は黄瀬の日々の努力とか素直にすごいって思ってるよ」

 黄瀬からは冬だというのにほんのりと汗のにおいがした。
 黄瀬が試合で鮮やかにダンクをしているところを見るひとは沢山いるだろう、でもこうやって汗をだらだらとかきながら地味な努力をしていることろを見る人は、どれくらいいるのだろうか。
 私は何だか悔しいような気持ちになって、黄瀬の額に自分の額をぐりぐりと突き合わせた。

「あーー! もう黄瀬は本当にかっこいいなーー! 私も黄瀬みたいになりたいよーー!!」
「何言ってんスか?!」
「私も黄瀬みたいに努力をするかっこいい人になりたいってこと!」

 他の部員からの視線を感じながらも喚いていたら、黄瀬にぎゅむりと頬をつかまれた。

「――嬉しいこと言ってくれるッスね」

 上目づかいでいたずらっぽく笑みをつくったその顔は確かに多くの女性を酔わせるだけのちからが感じられた。私は途端に恥ずかしくなってしまって黄瀬の手を振り払う。

「そ、そういう恥ずかしいことはやめてください黄瀬くん。セクハラ……? 痴漢? で訴えますよ!」
「あはは、何スかそれは!」

 わっと笑った黄瀬は無邪気ないち高校生だった。
 私はほっとした。みんなの噂の種になるような過激で大人びた黄瀬じゃない、本物の黄瀬がここにいる。さっきまでのもやもやとした苛立ちは黄瀬の笑顔でどこかにふっとんでいた。

「――私さ、黄瀬の友達になれて嬉しかったよ」

 急に真面目になった私に黄瀬は怪訝そうな表情で答えた。
 クサいことなんて言うなとからかわれるかと思いきや、黄瀬も静かな声で「そうッスね」なんて言うものだから。私は思わず笑ってしまったのだった。




 放課後の生物室は西日がうすく差し込んでいた。ノートを机の上に積み上げてから、私は生物室の窓を開けて身を乗り出した。
 黄瀬は案外早く見つかった。
 つぼみを固く結んだ桜の枝のむこうに、ロードワーク中の黄瀬が見える。彼の鮮やかな金髪は冬の景色にはとても不釣り合いで、まわりから浮きだっているおかげで見つけやすかった。
 私は左手を高く上げて黄瀬に手を振る。
「黄瀬ーー! 部活頑張れーー!」
 気づいたらしい黄瀬は走りながら、器用に耳を抑えるような素振りをした。「うるさい」と言いたいらしい。
 ひどいやつだ。反撃してやろう。
「黄瀬、今日もかっこいいよー!」
 寒さで蒸気していた黄瀬の頬が、夕日に負けないくらいに、ぽっと染まった。
 私はそれがあまりに可笑しくてつい笑ってしまう。
 黄瀬はやっぱり私の一番の友達だ。




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