Sorrow



別れを切り出したのは私だった。
そしてすべての原因も、私だ。

好きだから別れるなんてそんなの想像の世界の話だと思っていた。
好きなら一緒にいる、嫌いなら一緒にいない。
それは友人でも恋人でも同様なことで、当然のこと。

そう、思っていた。



彼との関係が始まったのは私にとって晴天の霹靂で、下校途中で急に呼び止められ告白をされたことが始まり。
聞いてみると海常近くの女子高に通う私に一目惚れをしてくれたらしい。
その時彼は既に有名人だったしなんの罰ゲームかと思ったけれど、震えた手と涙声に私は思わず頷いていた。

しかしそこから私が彼に溺れるのに何ら時間はかからなかった。
コロコロ変わる表情も、子供っぽくて紳士的な所も、何よりも私を見つめる柔らかい眼差しに心は日々解かされていった。

だけどこんなにも誰かを好きになったことがなかった私は好きが膨らむと同時に、恐怖が膨らんだ。
この関係はいつか終わってしまうんじゃないか、この幸せはいつまで続いてくれるのだろうか。
本当の本当はやっぱり罰ゲームで、あんたなんか好きじゃないなんて言われてしまうのだろうか、なんて最低なことも浮かんだ。

誰に言われたわけでもないし、きっかけがあったわけでもない。

ただ、幸せすぎた。

黄瀬くんが隣にいる時でさえそんな気持ちは大きくなるばかりで。
そんな不安定な私に止めを刺したのも、


「あー、やっぱあの黄瀬くんかっこいい!」
「好きだよねー。あの広告結構前からない?」
「うん!でも好評だから期間延期してるの」
「広告の延期ってそんな簡単にできるもの?」
「それほどスポンサーも気に入ってるんだって!欲しいなー」
「あんたの部屋埋まるわよ…」


私の前で女子高生二人がそんなことを言いながら見上げた、ファッションビルにかかった巨大広告とそれに映った黄瀬くん。

ビルに新しく入ったお店のために作られた広告で、スーツをかっこよく着こなす彼は文字通り別世界の人だった。
分け目をつけてメイクもして、カメラを見つめただろうその視線は幾人もの女の子の心を掴み足を止めさせた。


しかしあの目線に多くの子たちが浮き立つ中、その瞬間私の何かが閉じる音がした。


彼を私の元に置いていてはいけない。
このままだと私は彼を閉じ込めてしまい、あの世界に行くことを許せなくなってしまう。
きっとそんなことも彼は微笑んで受け入れてくれるだろう、だからそれが怖くなった。


そんなよそよそしい態度が影響したのか、私の提案を彼は少しの抵抗を見せたもののすんなり受け入れてくれた。

友人も何も聞かないし、雑誌も見ないように。そうしていたら、ひと月も経てばあの日々が嘘だったかのように、私は彼がいない日常を再び取り戻していた。



「(…さむ)」


昼間はまだ暖かいけれど、流石に夜になると風も冷たくなってきている。
早く買い物済ませて家に帰ろう、暖かいお風呂とレモネードが待ってる。
ここにいつまでもいたって何も起こらない、そう思い足を進めた。



その時ふいに私の横を通り抜けた、のは




「なんかいい匂いするね、黄瀬くん」
「あ、わかる?これサンプルでもらったシャンプーなんすよ」
「へー!あれ、でも香水つけてなかった?」
「んー…だって名前ちゃん、実は香水苦手でしょ?」
「…あたし顔に出てた?」
「いやあ、なんとなくっすけど」
「なんか、ごめんね」
「んー、まぁ実際背伸びして香水つけてただけだし、名前ちゃんみたいにナチュラルにシャンプーの匂いするのいいなって思って」
「え?あたしそんな匂いするかな…」
「普段はそうでもないけど、ぎゅってするとね、俺すげー幸せになるの」
「幸せ?」
「名前ちゃんの匂いでいっぱいになって、ぽかぽかになってきゅんってなるんすよ」
「なんか乙女だね」
「えー?そうかなぁ」
「…あたしも」
「ん?」
「あの香水も好きになってきてたんだ」
「え?じゃあ戻す?」
「…んーん。これからはあたしのことを思ってくれたそれがいい、かな」
「えっと……嬉し?」
「…ん」
「、もー!何でそんなに可愛いんすか!」
「ひゃ!ちょ、外じゃ恥ずかしいよ!」
「いーじゃん、誰も見てないっすよ?」
「そ、そういう問題じゃ」
「ほーら、ぎゅー」
「う、う……」
「…これ、新しい幸せの匂いっすね?」
「ふふ、…うん」



記憶が一瞬にしてフラッシュバックする。
あの時目の前に広がった君の肩を、感覚を体温を。そしてあの香りが全身に駆け巡った。

とっさに振り向いても見慣れた黄色い髪の毛は見当たらない。幾度見回しても本物の君は何処にもいない。
代わりに視界に映ったのは、ぼやけた異世界のあなた。


本物の君に会えたわけでもないのに、たったひとつのきっかけで
君の表情も、体温も、何から何まで全てが鮮明に甦る。




ねえ、私。
本当に守りたかったものって、何?




私が守りたかったものは黄瀬くんじゃない、自分だ。
傷つくことを恐れて、黄瀬くんを傷つけてしまうことを恐れて。
未来の自分を守るために、大事な人を傷つけてしまった。

でも今、それは正しかった?

未来の自分を守っても、結局今の自分は守れない傷つくしかない。
いつの日かわかることかもしれない、この選択が正しいと思う時が来るのかもしれない。
でも今を生きる私に正誤判定なんてつけられない、今の私は彼が愛しくて、苦しい。


ねえ、私。



買い物にかこつけていつもここに足を向けるのはどうして?
(君に会うことができるから)

いつも君のことを忘れた、なんて心に言い訳しているのはどうして?
(つまり忘れてないんでしょう?)


もしも会えたところで私は何を言うの?
君を傷つけた私に言えることなんて何もない。許してほしいなんて言える訳もない。

君を私を傷つけて得られたものなんて、何もない。



幸せの香り、その名前を覚えていないのは、いつだって君に聞けると思っていたから。
君はずっと、隣にいると思っていたから。



未熟な私の心を奪ったのは、遠い世界の王子様。
でも私が本当に愛していたのは、そんな姿をした等身大の男の子。

それさえ忘れなければ、今でも君は隣にいてくれたのに。





「…、バカ」




自分を苛める呟きは雑踏に掻き消されるけれど、
私の体を包む黄瀬くんの香りと想いは解くことができなくて。

君を想って流した涙はアスファルトの上で小さく滲んで、溶けた。




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