Hand



電子音が体温測定の終わりを告げる。38.2…小さな画面に表示される数字を見るだけで身体の怠さは更に増した。いつもは楽しい休日も、熱なんてものを出してしまえばあっという間に暇を持て余すだけの残念な日に変わる。
人肌が恋しくて切ないのに、今日は家族が全員外出している。急な体調不良だったし仕方無い。でも、自分で額のシートを交換するのは寂しさを通り越して情けなかった。

「自業自得だよねー…」

高校生にもなって自己管理すらまともに出来なかった私が悪い。天井にぼやいて、ぬるくなったシートを交換するべく布団を抜けてリビングへ向かった。



体調が悪いと何をするにも動きが鈍って嫌になる。力の入らない腕で冷蔵庫を漁り、替えのシートを取り出した。
額に貼り直して、母が用意しておいてくれたレトルトの粥でも食べよう。昼なんてとっくに過ぎているのに、怠くて食べる気になれなかったのだ。現在、午後二時。やっと腹の虫が活動を始めた。
冷蔵庫を閉じてパッケージに書かれた調理方法を読む私の耳にインターホンの音が届く。宅配便が来るから出来れば受け取ってくれと母に言われていた記憶が掘り起こされた。万が一の場合に備えてだらしない部屋着は避けてあったけれど、身体が辛い上髪がボサボサだからあまり行きたくない。

インターホンがもう一度鳴った。とりあえず誰だかの確認だけはしておこうと近場のモニターを覗く。眼鏡をかけた見覚えある青年が映し出された瞬間、私から居留守を使う選択肢が消えた。

「み、緑間くん…」
「無事に生きていたか、名前」

控えめにドアを開けると厳しい表情をした緑間くんの表情筋が微かに緩んだ。部活帰りだろうか、制服をきっちり着込んでいる。
大袈裟に問われ立ち尽くす私に、緑間くんは何度も電話やメールをした事を教えてくれた。昨日から充電器に差し込んだままの携帯を思い出す。

「やはりな」

緑間くんは私の額に貼りつくシートを見て溜め息を吐いた。昨日、担任を呼んで無理矢理私を帰そうとした彼の気持ちがやっと理解出来た。昨日に戻れるなら絶対言う通りに早退してたよ、なんて戯言を口にしてみる。緑間くんは反応しなかった。

「…両親は不在か」

緑間くんの視線はもう私に向いていない。いつの間にか私の背後にスライドされている。
静けさに気付いて私の腕を強引に掴み、「お邪魔するのだよ」と申し訳程度に言ったら最後。緑間くんは私を部屋へ強制的に連れ戻そうとした。

「ちょっと待って。私、これから昼食だったの!」
「こんな身体で調理など有り得ん。どうせレトルト食品だろう。オレが用意してくるのだよ」

反抗の隙は一切与えられなかった。というよりも、彼の言葉の全部が正論だったから何も返せなかった。結局されるがままベッドに押され、布団でぺっしゃんこになる私。
気遣いは結構だと言えば緑間くんは素直に帰ったはず。だけど私がそれを言わなかったのは、彼が帰らない事を密かに望んだからだ。私一人だった空間に緑間くんがいる。それだけで元気が湧いてくる気がした。



数分が経ち、緑間くんが部屋に粥を持って登場した。私は腕を使って上体をゆっくり起こす。落ちそうになったシートはギリギリ守った。
近くにあった勉強用の椅子を勧めて緑間くんに座ってもらう。使い捨てスプーンをずっと握って離さない彼に私は首を傾げた。

「名前、オレの次の行動はどのようにすれば良い」
「どのように、って?」
「食べさせるべきか?」

真顔で訊ねてきた緑間くんが私の熱を上げた。苦笑を使って誤魔化し、自分で食べるからと伝えスプーンと容器を受け取る。

私は胸を撫で下ろした。彼の綺麗な手が火傷を負ったらどうしようかと内心ひやひやしていたのである。
緑間くんの手はとても神聖なものだ。特に左手。テーピングテープが無い彼の左手はバスケをする時以外は滅多に見られないし、晒される事は無い。この手を傷つける事は冒涜と同義だと私は割と本気で思っている。以前本人に直接言ったら「お前はオレ自身よりも手の方が好きなのか」と冷ややかな目をされてしまったけれど、彼の手があってこそあの端麗なシュートが作られるのだからこれくらいの考えは許してほしい。

息を吹きかけて冷ました粥を口に運ぶ動作を繰り返す。緑間くんは何が楽しいのかそんな私を食べ終わるまで凝視していた。


「……ごちそうさま」
「キッチンに下げてくる。ついでに茶でも淹れてくるのだよ」
「そんな…悪いよ」
「良いから黙って寝ていろ」

緑間くんは、渋々お礼を言う私に鼻を鳴らして部屋を出ていった。
残された私は、思い出したように辺りを探って充電器から携帯を抜き取る。電源を入れた瞬間に飛び込んでくる不在着信と新着メールの知らせ。それのほとんどが緑間くんからのもので感涙しそうになった。

一文一文丁寧に読み進めていると、突然食器同士がぶつかる鋭利な音がドアの向こうで聴こえた。

「…ッ」

手から携帯が滑り落ちる。私の至福のひとときは呆気無く幕を閉じた。



階段を駆け下りる私の手には汗が大量に握られている。緑間くんに何かあった。そう思ったらいてもたってもいられなくなり、部屋を飛び出していた。

「──緑間くん!!」
「!? 名前…」

キッチンに入ると、緑間くんがやかんの目の前で腕を組んでいた。

「ねぇ、平気!? 怪我とかしてない!?」
「…そんなに慌ててどうしたのだよ」
「だって、……あ、れ?」

訝しげな緑間くんは、どう見ても普通だった。
近くには急須と葉茶入れが置かれている。それらにも特に変わった様子は無い。
本当に何も無いのかと再度声を張った私に、お茶用の熱湯を沸かしているだけだと彼は告げた。私とは真逆の淡々とした口調がキッチンの静かな空間によく馴染む。
さっきのはやかんを引き出しの奥から取る音だったのかも知れない。私はやっと冷静になった。
緑間くんの顔色が私を見て荒んでいる。寝ていろという言い付けを守らなかったからだろう。そこについてはごめんね。それでも私は、緑間くんの安否確認を優先したかった。指一本でも彼に何か起こっていたら、私はこの先の人生を生きていけない。…なんて言ったら前みたいに呆れられる?

興奮したのが原因で鈍痛が頭を走り、体調不良を忘れていた私の膝が折れた。床に倒れる一歩手前で緑間くんに抱き込まれ、響かないよう考慮した声で怒鳴られた。

「馬鹿か、お前は…!!」

ひやりとした手が頬や首元に当たって気持ち良い。テーピングテープの感触が落ち着く。焦っているのか籠める力が少し強かった。
責める声とは裏腹に、添えられた手は私を安心させようとしている。彼の手が私を心配してくれている事が痛いくらい伝わってきた。ベッドにいるより確かな包容力を感じる。やっぱり緑間くんの手は凄いなと改めて思った。

「全く……」
「反省してます」
「解れば良いのだよ」

彼の隙間から熱湯がヒュンヒュン音を立てているけれど、知らん顔をして強い腕の中に包まれておく。今の私は湯気が出るほど沸騰中で、そんな事を指摘する余裕は一ミリも無いのだから。




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