短編 | ナノ

2:一日目-深夜

 少しでも進めておこうと頑張ったが書類、というかメモ上の手書きの文字がうまく読み取れず、一人では何もできないに等しい。長義さんはまだ戻ってこない。それはとても良いことでもあるし、悪いことでもある。

 実質的に閉じ込められた状態になってからそれなりの時間が経過してしまった。

 この部屋には時計がないので、私は自分の持っているスマホを取り出す。夜の一時半だった。普段は夜型ではあるが、この部屋で『仕事』をしながら迎える丑三つ時だと思うとなかなかに恐ろしい時間だ。なんでこんなに時間を掛けてしまっているのだろうか。
 一度立ち上がり、部屋の中を見渡す。やはり襖は開きにくいし、窓も開かない。
 耳が些細な違和感を拾う。足音――の気がした。まずい、と私は慌ててパソコン前に座り直す。
 障子戸が引かれる。戸は一度ガクリと詰まり、長義さんが「ああ」と小さく、そういえばこの戸は素直に開けられないのだったと気づいたらしい声を上げている。

「待たせたね。君の寝支度をして、少し丁寧に淹れていたら、思いの外時間がかかってしまって」
「いえ、大丈夫です」

 私は色々と大丈夫ではないが、と再び部屋を見渡した後に、手元の資料に視線を落とした。

「あの」
「何かな?」

 お茶を淹れてきてくれた長義さんは、私の隣にそれを置く。青いラインの入ったティーカップ。
 いい香りだ。つい手が伸びそうになるのをこらえて、一度彼に向き直って口を開いた。

「……これ、このお仕事? は、どこまでやれば終わりですか」

 ――キリのいいところまでやるとは言いましたが、それがどこまでかいちまいちわからないんです。
 そう付け加えた私の問いに長義さんが固まる。

「どこまで、ねえ……」

 長義さんが目を細めた。その瞳を見ても何を考えているかわからなくなって、私は緊張したまま彼の答えを待った。
 ややあって、長義さんは私の手元の資料をやさしく手に取って、そして画面を眺めるという行為を何往復かしてから口を開いた。

「あとこの二、三枚を打ち込んでくれればいいけれど。なんだ、今の間にあまり進まなかったのかな」
「ううすみません。ちょっとその、集中力とか、途切れちゃったかなーって」
「……まあ、そうだね。もう深夜だ、既に色々と仕事してもらっているから、君にもだいぶ無理をさせているだろうし」

 長義さんは窓の外を見ようとして、一瞬厭そうな顔をして視線をこちらに戻した。

「今夜はここらへんで一区切りにしてもいいよ」
「ほ、本当ですか。すみません」
「問題ないよ」

 彼の答えにほっとする。流石に体力的にも精神的にも限界が来ていたので、そろそろ休みがほしかったのが本音だ。

「では、寝る前に。ほら」

 長義さんは気を取り直して、先程淹れてきてくれたお茶を指し示す。立ち上る湯気、茶葉の良い香りに包まれて気が緩んだ。それからはっとして頭を振って、すう、と深く息を吸った。

「飲まないのかな。喉が乾いているだろう?」
「あ、良い香りだなあって、つい……あと、今深夜だから、お茶を飲んでしまうとこれから眠れなくなるかもーなんて」
「そう言うと思ったよ。白湯もあるけど」

 長義さんはどこに持ち込んでいたのか、湯呑みに入った白湯も隣にトン、と置いた。
 読まれていたなんて。しかもこんな失礼なことを言い出した私に対して、怒るでもなく、待っていましたとばかりに代替品を出してくるなんて、侮れない人だ。

「……気が利きすぎて困りますね」
「君のためだからね、当たり前だろう」

 こそばゆいを当たり前のように通り越して、全身に毛が逆立つような感覚が走る。長義さんは「君が来てくれてどれだけ助かったことか」と付け加えつつ、小さく嘆息した。
 彼が差し出した湯呑みもまた、じっと見る。綺麗な器だった。

「まあ白湯、お水なら大丈夫ですよね」
「それはそうだろうね。カフェインも、何も、入っていないよ」

 私は少しぎこちない動きで頷いて、湯呑みを手に取り、傾ける。程よい熱さの白湯が喉を滑り落ちていった。緊張で乾ききっていた喉が潤っていく。甘さすら感じた。

「おいしい」

 つい口に出てしまった言葉の後に、長義さんはほんの少しだけ眉を顰めてやや不機嫌そうな声色で言った。

「……そもそも俺が淹れたお茶を飲まないのは失礼に値すると思わないのかな」
「あっ! そっ、ですよね。ごめんなさい、ごめんなさい」
「まあ、深夜だからね。君が気にするのもわからなくはないよ」

 しかし、彼は私に向かって有無を言わさぬ視線で指し示した。飲め、と。

「刺激が少ないお茶だから大丈夫だよ」

 数瞬、十秒、私は気が付いたらティーカップを手に取っていた。

「じゃあいただきます……せっかくなので」

 へら、と笑って、カップを口元へ近づける。白湯よりも少し熱めの液体が唇に触れ、口内に広がる。
 ちびちびとお茶を飲む私を、長義さんはじっと見ていた。

「あ、おいしいかも……」
「だろう? 特別な茶葉で入れているからね」

 なんとも言えない不思議な味がした。これまでに生きていた中で飲んだことのない味。うまく物事を考えられなくなってしまいそうな芳醇な香り。

「かなりこだわって買ってきたらしいけど、その当刃がもういなくてね。誰も飲む相手がいないのも、茶葉が可哀想だろう」
「そう、なんですね。確かにもったいないかも」

 戸棚の中で置かれて傷んで忘れ去られるよりも、誰かに飲まれた方がいいに違いない。
 私がそのままもう一口飲んでいると、長義さんは口元に笑みをたたえながら言った。御満悦のようだった。

「今度は俺が茶葉を選んでこようかな」
「今度……」
「楽しみにしてくれていていいよ」

 次の機会には、もっとリラックスした状態で飲める状況にあるのだろうか、と私はほんの少しの苦い感情が混じるのを感じながら、微笑みを返した。






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