何度瞬いても目の前の光景は変わらない。変わっていてほしかったが、どうやら現実であるらしい。
「ほら、さっさと手を動かすといい」
「う……はい……」
目の前にあるエクセルファイルを見て、隣に置かれた妙に達筆の手書きのメモを見る。今の御時世手書きのデータを手打ちして電子データにするなんて、なんと時代遅れなことか。読み取りである程度自動化できるアプリだとか色々あるだろうに。資材、数、あとアラビア数字ではなく何故か漢数字。桁数がちょっとわかりにくい。
どうにかして指定された一枚目、二枚目の入力を終えた。
「二ページ目までは終わったかな。次はこれだ」
「ええまだあるんですか」
「まだいくつかあるよ。この手の申請は面倒くさくてね」
私に対して多少の申し訳無さを覚えているのか、彼は嘆息混じりに答えた。
刀のなまえは馴染みのない漢字や読みが多くてタイピングも遅くなる。全てが読みづらいので何度か目を瞬く。一回、放り出してしまいたかった。
でもやれと言われたのでやるしかない。
ぐったりとしながら顔を上げる。圧がある。美しい銀色の隙間から群青色が覗いている。
――つまり、目が合っている。
「俺を見ている暇があるのかな?」
「イエないです」
視線をそらす。気まずい。
キーボードを叩く手の速度が落ちたからだろう、後ろにいる……長義さんは、私の方をじとりと睨んでいたらしい。怖さとそのかんばせの綺麗さで中和されるかと思ったが怖さが増すばかりだった。
モニタの画面がわずかに暗くなり、ただでさえ薄暗い部屋の中の光源が心許なくなった。私の手が止まっているせいだった。
「……捗っていないようだけど」
「うう」
私の弱りきった小さな唸り声が和室内に響く。彼は呆れ気味に私に視線を投げて、そして小さく嘆息した。私の効率の悪さにほとほと呆れ返っているのだろうな。ほぼ初対面に近いのにこんな風に悪印象を重ねてしまうと、どんどん居心地が悪くなる――もともと良くはないけども。
「はあ……まあ、疲れているだろうから、いきなり任せた俺が悪いかな。今日はもう休んでもいいけれど」
「今日は、え、うん、そうですね」
「何だその煮え切らない返事は」
「な、なななんでもないです」
怖い。やっぱり綺麗な顔立ちだと怒りや呆れを孕んだ視線というのはより怖くなるのだ。私はおずおずと尋ねる。
「……その、休むっていうと」
「ああ、俺が床を整えておくから、君は一度身を清めてくるといい」
「ああ〜……で、でもあとちょっとで終わるかもしれないし。キリのいいところまではやりますよ」
手渡された書類とメモの中間のような数枚の紙を手に取る。ただ入力すればいいのなら、意外とすぐに終わるだろう。
画面を見てから長義さんに向けてぎこちない笑みを見せると、彼は少し首を傾けて目を細めた。
「へえ?」
彼は口元に軽く己の指を当てて、口角を小さく上げた。まるで、見込みがある――と言っているかのような、都合のいい妄想が沸き起こる笑みだった。
「まあ、君が頑張るのなら、俺はそれを拒む理由もない。それに」
「……それに?」
「いや、なんでもないよ。お茶でも淹れてこようかな、まだ休まないにしても小休止はしたほうがいいからね」
長義さんはそう言うと、一度障子戸を引いて退室し――ようとして、少しぼろくなった戸がガッと詰まる。五センチほど開いた状態で止まって、うんともすんとも言わなくなってしまった。
室内に微妙な空気が流れる。気まずい。こんな状況であってもせっかく私に気を遣ってくれようとしていたというのに。
「……。」
「ああっ、くそっ、この本丸は本当に……」
「そんな無理矢理開けると戸が破壊されそうですね」
「……そういえば、開けるのに少しコツがあったかな。こうして……こうだ、開いた」
じゃあ、俺は君のためにいいお茶でも淹れてこよう。
彼はそんな言葉を残して、部屋を颯爽と立ち去り、そして障子戸をきっちりと閉めていった。
「あ」
私は慌てて立ち上がり、少しだけその場で待つ。
そっと障子戸を引いて開けようとするも、先程の彼と同じように障子戸は途中で止まってしまい、五センチしか開かなかった。手首を外に出してみるが、腕は途中でひっかかる。戸を引いても押しても動かない。これでは鍵がかかっているのと同じだ、と途方に暮れる。
中途半端に出た私の手に、何かがつん、と触れた。
「ひええ!」
「ほら、今のうちに少しでも進めておいてくれるかな。何も夜通し作業させようというつもりはないからね」
長義さんの声が響いた。もしかして、私が外に逃げようとするのを見越して少し待機していたのだろうか。意地の悪い人、いや、刀だ。
私は諦めてすごすごと部屋の中に戻り、部屋の前に置かれたパソコン前に座る。どうせなら長義さんがやってくれればいいのに、というのはきっと野暮だろう。
「軟禁状態……」
私は部屋の中に視線を走らせた後に、長義さんが帰ってくる前にまずは書類を手に取った。