彼は不思議な客だった。私を買う人間は頭のおかしい者ばかりだったが、その中でも彼は特別おかしな人間であった。性を売る私に擬似恋愛など求めなかった。

「……しないんですか?」
「気分じゃないんだ」

 なら何故買ったのか。浮いた疑問は私には関係のないこと。貰うものさえ貰えるのならば、犬のように扱われようが甘く吸い付かれようが放置されようが何も変わらない。利害の一致の前では何も意味をなさない。
 そうですか、あなたがそれでいいなら。ごろりとベッドに寝転がり、シーツに頬を乗せる。湿り気のない感触は、久しく感じていないものだった。

「したかった?」
「……いえ、」
「ごめんね、ありがとう。でもたまにはこんな日もいいでしょう」

 男は笑いながら自分の鞄を開けた。底の見えない男に似合う黒い鞄だった。出てきたのはスケッチブック。

「描いてもいいかな?」

 質問の意味がわからず戸惑う。君を描きたいんだけど、いいだろうか。もう一度訊ねられてやっと理解する。あなたがそうしたいなら。私は頷いた。
 動くなと言ったり動けと言ったり、私はそんな男の要望に忠実に従った。男もそれに満足し、紙の上に鉛筆を滑らせる。男は簡単なデッサンを何枚か描いたところでスケッチブックを閉じた。


「お疲れ様。今日はもう寝ようか」

 男はベッドに丸まる。その横に身をよせた。今日は、そう男は言った。ならば私たちの関係に明日はあるのだろうか。次という言葉さえを危ういこの二人に。


 夜具の上で狸寝入りを続ける男ふたり。互いに気付いてはいるも、意味のない演技は続く。無理に呼吸を穏やかにさせることに疲れ、私は口を開いた。

「絵描きさんなんですか」
 尋ねれば案の定男の瞼は開かれた。
「駆け出しだよ」
「美大生ですか」
「そんなに若く見える?」
 おかしそうに笑った男の顔は、先ほどより幼く感じた。見えますよとけらけら笑いながら言えば、近付いてくる彼の顔。乾燥した唇同士が触れる。隠れていた劣情と思われるものがじわりじわりと流れこんでくるのを感じた。気分じゃないなんて嘘だ。

「しないんですか?」
 男はしたくないと言った。先程とは違う答えだった。
「私が好みじゃないのなら、他のを誘えば良かったじゃありませんか」
「違う、そうじゃないんだ。あなたにとって僕がその他大勢と同じになるのが嫌なんだ」

 男はそれきり瞼を閉じてまた寝たふりを始める。私も呼吸を深くさせた。





 眠りから覚めれば、黙って私を見つめる男の瞳と目があった。意識のないところで見られていた恥ずかしさから、私の頬は熱をもつ。彼もまた頬を赤く染めた。
 男はそそくさとベッドから起き上がり、例の黒い鞄を開けた。取り出したのはぼろぼろの財布。出てきたのはよれた万札。私はそれを受け取らなかった。

「駆け出しの絵描きさんなんて金に困ることばかりでしょう。その金は自分のために使って下さい」
「でも僕は昨夜君を買った。君にはこれを受け取る義務がある」
「……今私がこれを受け取れば、あなたは私の中でただの日常に溶け込むでしょう。絵を、描いて下さい。私の絵を。次に会う時でいいですから」

 男は私を抱き寄せると、必ず描くと言って鼻をすすった。

「僕が立派な美術家になって、金に困ることがなくなったら、僕と一緒になってくれないか。嫌だと言われたら、毎日君を買う」

 私のどこに男から想われる要素があったのか。そして男のどこに私は惹かれたのか。契約書もない口約束はきっと守られるのだろう。先程まで「次」という言葉さえも危うかった関係なのに。

「そうしたら、その時はちゃんと抱いて下さい」
 その時まであとどれだけかかるか。それを待つ間に、私は何度も知らぬ人間と恋愛ごっこを繰り返す。



おわり

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