遠くでぼんやりと聞こえていた笑い声が、徐々に近付いて、また遠ざかっていく。すべりの悪い廊下を駆けていく足音が、校舎のどこからか響いてくる。教室のドア一枚向こう側は小さな騒がしさに包まれているのに、教室の中はとても静かだ。あずこうも俺も、ただ黙ってグラウンドに面した窓の下に座り込んでいる。頭上を夕日が通り過ぎて、床に歪な四角形を照らしていた。 「あずこう」 呟いた声は、思った以上に掠れていた。たったの四文字が、喉を震わせる。 あずこうは何も言わずに、俺の小指を握った。 あずこう。 俺たちのクラスには「こうき」がふたりいた。浜山幸樹と東康毅。誰かが「こうき」と呼ぶとふたりとも振り向くので、毎度それでは煩わしいと思い、東にあだ名を付けた。あずまこうき、だから「あずこう」。浜山のことを「はまこう」と呼ぶのは、有名人を想起させるので止めておいた。なので、うちのクラスでこうきを呼べば、浜山幸樹が返事をするのだった。 そんな入学当初からのことを思い出して、懐かしさで肺のあたりが苦しくなってくる。 情けない声が喉の奥から漏れ出して、涙が溢れて頬を流れていく。小指の圧迫が少し強まった。 もう一度彼を呼ぶと、彼はこちらに顔を向けた。 「3年って、早かったな」 「……そうだな」 「もう、明日から、学校、来ないんだよな」 「……ああ」 「制服も、最後だし、」 言葉に詰まって、そこで止まってしまう。あずこうは眉間にぎゅっとしわを寄せて、何かに耐えているようだった。 俺の唇は痙攣を起こしたように震えて、うまく動いてくれない。それでも、頑張って口を開く。 「あずこう、東京、は、遠い、よ」 あずこうは、東京の国立大に通うため、3月中にはここを旅立つ。俺は自宅から通える範囲の福祉保育の専門に通う。地元から東京まで、そう簡単に行き来できるような距離じゃない。 どうしようもない不安だけが募っていく。 「電話も、メールもできるし、帰ってきたら会える」 「でも、寂しい、よ」 「……うん」 「それに、あずこう、モテるから。あっちで、彼女、つくっちゃうんじゃないかって、不安で、俺、」 「そんなこと言ったら、俺のほうが不安だよ。保育専門って女のほうが多そうだら、俺なんてあっさり捨てられるんじゃないかって、ずっと考えてた」 「そんなの、絶対、ない」 「俺も、絶対ないって言い切れるよ。だから、俺らなら大丈夫だ」 あずこうがいつもと同じように微笑む。俺を安心させるために、なんでもないような顔をしている。先ほど自分の不安を吐露したのと同じ口で、今度は笑みを作っている。俺ばかりが駄々っ子のように泣きわめいてる。これではいけない。俺も、あずこうとなら大丈夫だって、信じる。 ぐずぐずになった顔面を制服のすそで擦るように拭った。気合いを入れてあずこうと向き合う。彼は優しく目もとを緩めた。そして、さらりと俺の髪を撫でるように、後頭部に手を当てる。徐々に近付いてくるあずこうに気付き、慌てて顔背けた。 「だめだよ……誰かに見られたらどうするの」 「大丈夫。もう人も少ないし、近くで声も聞こえない。ちょっとだけだから、な?」 返事をする前に唇をふさがれる。ついばむように何度か吸い付かれ、それからあっけなく離れていく。 そうして、あずこうはいつもと同じような声色で「帰ろうか」と立ち上がった。 上靴を袋につめて、あずこうと校舎を出る。 もう、また明日学校で、とは言えない。朝の教室でおはようって言えない。やっぱり寂しさは残る。 でも、俺たちはここからがはじまりだから。これから頑張っていかなくちゃいけないんだから。泣き言ばかり言ってられない。 ふたりとも夢を叶えて、いつかまた。 おわり ← |