十数年をかけて煮詰まったヘドロのような感情は、僕の中で行き場をなくし、隙あらば外へ出て行こうとする。俺の身の内側は汚れに満ちているのだ。

******


 兄と初めて顔を合わせたのは、俺が小学生の時だった。児童養護施設育ちで親の顔など見たことがなかった俺に、血縁者だという青年が尋ねてきたのだ。
『はじめまして、相楽くん』
 彼の大きな手で優しく頭をなでられ、俺はその温かさに困惑した。俺は自身が孤児であるその理由を知っていたからだ。小さな施設の内部で、大人たちの密話は回りまわって子どもたちの噂話へと変わる。俺のルーツは犯罪だと知ったのも、まだ幼いうちのことだった。そのため、青年が穏やかな表情で俺に接することが信じられなかった。彼からは憎しみといった類の感情は見られなかった。俺は強姦魔の息子だというのに、まるで、何か壊れ物を扱うかのように触れるのだ。
 そうして俺は訳もわからぬまま兄に引き取られ、一緒に住むことになった。木造一戸建て。住んでいるのは兄だけ。身に馴染まない生活臭は、自身の異端さを感じさせる。仏壇には夫婦と思われる男女の写真が飾られていた。半年前、事故で亡くなったのだと兄は説明した。
『僕はね、父と母が亡くなったとき、自分は天涯孤独だと思った』
 幼かった俺は「天涯孤独」の意味などわからなかった。ただ、彼の遠くを見るような視線とその表情から、さみしいことなのだと子どもながらに考えた。
『相楽、キミがいてくれてよかった』

 俺がいて、よかった。
 誰かに必要とされるなんて初めてだった。彼に抱きしめられると、身体中の血液が駆け足で巡り、胸が苦しくて息が詰まる。幸せとはこういう感覚なのだと思った。






 兄は仕事が軌道に乗り始めた頃、俺の知らない女と結婚した。
「相良くん、私たち家族になるんだから、遠慮しないで何でも言ってね」
 女の、あの、わざとらしく艶めいた唇が、俺の中の嫌悪感を大きくさせていく。家族?書類の上の印に繋がれただけのお前が、何を偉そうに。なんて小汚い内心を曝けたならば兄の失望を買うことくらいわかっていた。俺は無邪気な弟を演じた。
 間もなくして女の妊娠が発覚した。俺は吐き出してしまいそうだった。日々大きくなる女の腹の中には、人間ではない悪魔が詰まっているような気がした。今日こそはあの悪魔のふくらみを踏みつけて潰してやろうと意気込むのだが、その度に兄の顔が頭をよぎって邪魔をする。俺の頭をなでたあの大きな手が、女の膨らんだ腹をなでるとき、確かに兄は「父」の顔をしていた。兄はもう兄ではない。孤独におびえていた、青年だった兄はもういないのだ。


 子が繋がらない言葉遊びを覚えた頃、俺は自身の限界を感じ始めた。
 柔らかで肌理の細やかな子の手のひらが、俺の人差し指をきつく握る度、触れた部分から俺の中の膿が移ってしまわないかと不安を抱く。この子が悪魔だなんて。踏み潰してしまおうだなんて。俺は鏡に向かって唾を飛ばしていたのだろうか。それならばと納得する。潰して中身を搾り出せば、俺も、少しは。


 ぎこちなさの滲む家族ごっこには嫌気が差していたし、義姉が俺の自立に口を出すようになってきた。納得のいかないと粘る兄を丸め、家を出て行くことを決めた。木造一戸建て。最初から最後まで、ここは他人の家だった。
「いつでも帰って来い」
 最後にそう声をかけてくれた兄には悪いが、俺がここに「帰って来る」ことはないだろう。俺は曖昧に微笑み家を出た。

 引越し先を目指す道半ば、電車の中で感傷に浸る。まぶたを閉じても眠れそうになかった。
 俺は兄に何を求めていたのか。去来する感情を一括りには出来ない。短絡的なものでないのは確かだ。親愛だけではないことも。思考の巡りの先に答えなどない。もういい。兄が幸せならば、それでいい。
 滲みそうになる涙をこらえるため、俺は自身の人差し指をきつく握り締めた。



おわり


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