暗然とした浮かばない思いは俺の中でひっそりと、しかし急激に育っていく。
 尊敬というほど明度の高いものでもなければ、嫉妬というほど彩度の低いものでもない。
 感情はキャンバスの上で筆を迷わせる。今まで何を考え色を重ねていたか、それさえも思い出せず俺は息を深く吐いて筆の置いた。

「スランプですか?」

 抑揚のない声が聞こえる。誰の声かなんて、振り向かなくてもわかった。

「……三田、いつからいたんだよ」

 キャンパスを見詰めたまま三田と思われる気配に声をかければ、今来たばかりですよと返事が返される。特有の油臭さが充満した室内に、清潔な洗剤の香りが混ざった。

「下塗りから進んでないじゃないですか」
「色の塗りかた忘れた」
「……本当にスランプなんですね。まぁ俺には関係ないんで、適当に頑張って下さい」

 三田のおざなりな言葉で会話は終了する。仮にも先輩に対する態度とは思えないが、三田の才能を前にしてはそれを注意することもできない。一度彼に反感を抱いた他の同級生たちは、それきり部室に顔を出さなくなった。三田以外に後輩もいない。部室には隣り合ったふたつのイーゼルだけが残り、しかし室内で俺と三田が交わることもなかった。

 深く息を吐いて、ぐっと背筋を伸ばせば、固まっていた筋肉が解れていく。一度置いた筆を取る気になれず、横で一心不乱に描いている三田を眺めた。
 人の心のえげつなさと脆さを写したような彼の絵は、くすんだ色の重なりの中にも確かな美しさがある。初めて三田の作品を目にしたときには、俺の内の柔らかい部分を抉られるような衝撃があった。今だってそうだ。完成にはほど遠い油絵は、しかし俺の心を吸い取るような力強さを持つ。これから絵の具の層が厚くなる度、魅力を増すのだろう。
 三田のあの手を、あの右腕を、俺が持っていれば。俺のえがきたい世界はきっとどこまでも深く麻布の上で広がっていくのだ。けれど、それはきっと俺の自己満足の塊に過ぎず、他人の芯を揺さぶるほどの感慨を生み出すことはできない。




「……そんなに見ないで下さいよ」

 三田は俺の視線に気付いたようで、横目で俺を睨んできた。

「気にしないで、続けてよ」
「集中できないんですよ。何か言いたいことがあるなら、さっさと言ってくれません?」

 可愛いげのない後輩は、眉間にしわを寄せて苛立ちを表す。こういう態度が他から反感を買うのだろう。
 でも俺は、三田の絵に惹かれ、それを生み出す右手に焦がれ、その才能に魅了され、揺るがない自信に憧れる。誰かに媚びる三田など見たくない。いつまでも孤高な人でいて欲しいと思う。確かにそう思うのに、半面、誰とも溶け合わない彼を思うと寂寥の感に駆られるのだ。孤独である彼に対してではない、彼を見上げることしかできない自分に対してだ。何故? 俺は三田と寄り添いたいのだろうか。
 暗然とした浮かばない思いは俺の中でひっそりと、しかし急激に育っている。
 尊敬というほど明度の高いものでもなければ、嫉妬というほど彩度の低いものでもない。
 ならばこの感情を何と呼べば良いのだろうか。


「黙ってないでさっさと言って下さいよ」
「……恋?」
「はい?」
「俺、三田に恋してるのかな」
「何の話をしてるんですか」
「だから、俺、三田に恋してるのかなって話」

 思い浮かんだものはそれしかなった。三田の絵は彼の心で、三田の腕は彼の体なのだ。俺は、三田という存在の全てに浸蝕されている。
 恋、なんて。口にしても実感はあまり湧かなかったが、三田が眉間のしわを深めたのを見て、可愛いと思う俺はやはり彼に恋情を抱いているのかもしれないと思った。




「三田、俺頑張るから」
「……何かよくわかんないですけど、まぁ適当に頑張って下さい」



おわり



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