足先が痛む | ナノ

 決して視線が交わることはない。彼はいつも焦点の定まらない瞳で床か空を見つめているからだ。
 俺はもうそのことに対し何も感じなくなり、一方的な視線を彼に向けるのがいつもの日常になりかけていた。

 ベットの上で上半身を起こしたままぴくりとも動かないその姿を、ベット脇の簡易椅子に座って見つめる。
 たまに一瞬だけ閉じられる瞼や、呼吸の度に上下する肩だけが今の俺を安心させた。




「人間になりたい」


 男は乾燥した唇から、ぽつりとそう漏らす。声は掠れていた。
 そんなこと望まなくてもお前は人間だ。そう答えようとしたが、彼の言いたいことがそのままの意味ではないことに気付いて口を噤む。
 もっと人らしくありたい、と、そんな叫びがそのか細い一言に孕まれているのだ。

 そんなこと望まなくてもお前は人間らしいよ。
 そう言えば目の前のこの男の胸の内は少しでも軽くなるのだろうか。ならないな。コイツにとって俺の言葉など耳を通り抜ける雑音と同じだ。
 元よりそんなことを言うつもりなんてない。この男が人間らしくないことなど、俺が一番良く知っているのだ。



「今日はもう寝ろ。ずっと起きていたから疲れただろう」

 体を横たえさせるために、男の肩を軽く押す。力の入っていない体はあっさりとベットの上に倒れていった。

 乱れた毛布を整えてやろうと手を伸ばすと、彼の青白い手のひらに手首を掴まれた。
 何気ないその行為に、俺は大袈裟なほど肩を揺らしてしまう。



「どうした?」

 動揺に気付かれぬよう、できるだけいつもと同じ調子でそう声をかける。
 それでも耐え切れなかった頬の筋肉が小さく痙攣してしまった。驚きからではない、怯えからだ。



「何で僕なんだ……何で…、何で………!」


 そこからは狂ったように「何で」「どうして」の繰り返し。
 しだいに俺の手首を掴む力も強まり、ぎりぎりと締め付けられる痛みに顔を歪めた。

 彼は怒りとも絶望ともとれる表情をしていたかと思えば、急に目にいっぱいの涙を浮べ思い出したかのように泣き叫びだす。
 今度は、痛い、痛い、と繰り返される悲痛な叫び。

 嫌に耳の奥に残るその声を聞きながら、俺はゆっくりと男の足の付け根を摩ってやった。


 痛むわけなどないのだ。痛むべきものが、そこにはもうないのだから。
 男の足元にかけられた毛布は、本来膝があるべきあたりから膨らみをなくしていた。
 それでも、男は膝下に感じる激痛に泣き叫ぶ。

 ちゃんと見てみろ。目を背けるな。お前は膝から下に足を持たないじゃないか。
 そう言えたらどんなに楽だろう。口に出せないから苦しいわけではない、自覚を持たせたからといって病が治るわけではことを知っているから辛いのだ。


 もう自分の足で地を駆けることができなくとも、お前はお前だ。お前はちゃんと人間なのだ。
 絶望にしがみ付いて生きることなど出来ないのだから、早く俺のことを見てくれ。視線を向けてくれ。

 いくらそれを言葉にした所で、俺の声は男に届かない。



おわり

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