そうしてしばらく経ってあの事件が起こった。僕が小学6年生のときだった。

 当時、登下校の途中で毎日通る空き地があった。雑草が伸び放題で、遊び場にもならないような空き地。
 いつものように通り過ぎようとしたとき、僕はその雑草の中に、赤い花を見つけた。どこから種が飛んできたのか、ぽつんと一輪だけ、隠れるように生えていた。その鮮やかさに、僕は目を引かれた。
 立ち止まった僕の横を、小さな男の子たちがランドセルを揺らして駆け抜けて行く。犬と散歩中のおばさんは、手綱を引くことに夢中で、空き地になんか目もくれずに通り過ぎて行った。

 花と、僕と、その他大勢。

 はっ、と息を飲んだ。
 ばあちゃんの言葉が頭をよぎる。
 これは縮図なのだと、そのとき、ようやく僕は理解した。


 それから、ぼくはその花の様子を観察するようになった。晴れの日が続くと家からペットボトルで水を持ち出し、地面をぬらしてやったりもした。
 いつのまにか、僕は「それ」に自身を重ねて見ていたのだと思う。「それ」を大事にする。そうすれば、いつか自分にも。

 けれど、そうやって大切にしていた存在は、第三者によって呆気なく壊されてしまった。




『ーーやめて!』

 近所の中学校の詰襟を着た少年が、僕の目の前で赤い花を引っこ抜いた。昔から何かと僕に意地悪なことを繰り返していた子だった。
 腕にしがみついて止めようとしても、体格差には敵わず、あっさりと振り払われてしまう。何度かそんな攻防を繰り返しているうちに、振り払われる反動で僕の体は地面に崩れてしまった。体を庇うためにとっさに出した手のひらには、砂利が刺さって熱く痛んだ。
 下卑な笑い声を上げる少年が、何度も、何度も、捻り潰そうようにその花を踏みつけていた。僕は地面に座り込んだまま、静かに涙を流して、それを見ていた。何もできない自分が悔しかった。
 そのいじめっ子の顔がどんなものだったか、今はもうぼんやりとしか思い出せない。けれど、あのとき少年は、何も出来ない僕を見下ろして、満足げに笑っていたのを覚えている。


「ーーそれで、どうなったの?」
「姉ちゃんが飛んできて、その男の子と掴みあいの喧嘩になって……大変だったよ」

 お互いに髪の毛を引っ張りあい、爪を立ててあって、ふたりともぼろぼろになったけれど、最終的に姉ちゃんが勝った。

「それまでにも、いじめみたいなことはよくされてた。人見知りな性格だから友達もできなかったし。そういう色々なことが積もり積もったうえに、その件が引き金になって、すごく人が恐くなった」

 自己投影していたからこそ、茎からぽっきりうと折れた花を見たとき、僕の心も折られてしまった。地面に横たわる花は、僕の未来に見えた。
 ヤナギは神妙な顔で僕の話を聞いていた。

「人が恐いって言ったけど、それはあおいのお姉さんも?」
 僕は慌てて首を横に振る。
 姉ちゃんは、確かにきついことを言うし、暴力的なところがあるけれども、それは僕のことを考えてくれているからだ。

「そう……じゃあ、俺は?」

 今度の問いかけに、僕は目を丸くしてしまった。

「ヤナギは、人じゃない」
「でも、俺は。自分の考えを口に出せるし、あおいに触ることもできる。……あおいを傷つけることだってできる」
 頬に添えられた彼の手のひらには体温がある。確かに、意思を持って動くことのできるヤナギは、僕を傷つけることだってできる。
 けれどヤナギが恐いなんて思えない。
 さきほどと同じように、首を横に振る。ヤナギはなにも言わずに、僕の顔を見つめていた。

 遠くで、何かがはじけた。地面を這うような低い振動が、窓ガラスをびりびりと揺らした。
 どうやら始めの花火が上がったようで、追うように同じような音が続く。

「俺、ずっとあおいのそばにいたい」

 花火の音に紛れて、ヤナギが吐息を吐くようにそう言った。
 彼の言葉がじんわりと染みるように心の深いところへと落ちていく。
 嬉しさと、ちょっとした気恥ずかしさで、頬が熱くなった。

「ありがとう。僕もだよ」

 微笑んだヤナギの表情に、暗い影が透けて見えた気がした。




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