***   

 翌日の朝、寝癖もそのままに朝食をとっていると、足音が聞こえてきた。降りてきた姉ちゃんは高校指定の制服姿で、もうすっかり身支度を終えているようだった。
 昨日のこともあって、姉ちゃんと顔をあわせずらく、逃げるようにウッドデッキへ出る。そして、ぼんやりと庭を眺めていると、その景色になんだか違和感を覚えた。
 もやもやした感じ。間違い探しの最後一箇所が見つけられないときのような。
 じっと庭を見つめて、やっと気付いた。ないのだ。メキシコハナヤナギが置いてあったところだけ、ぽっかりと隙間が空いている。鉢植えごとすっかり消えてしまっていた。

「姉ちゃん、庭いじった? 鉢植えがひとつなくなってるんだけど」
「知らないわよ。夜中のうちに足でも生やしてどっか行ったんじゃないの」

 血相を変えて居間へ戻ると、姉ちゃんはそう言って意地悪く口元を歪めた。軽口で僕を馬鹿にして遊んでいるのだろうが、それどころじゃない。

「泥棒でも入ったんじゃ……」
「馬鹿じゃないの。一日中あんたが家の中にいるっていうのに、いつ泥棒されるっていうのよ」
「……昨日はそこにちゃんと置いてあったし、夜のうちに誰かが忍び込んだんだよ!」
「泥棒が忍び込んで鉢植えを盗んだの? もっと他に金目のものがあるでしょうよ」

 姉ちゃんと僕の間の温度差は埋まらないまま、彼女は登校してしまった。
 家でひとりきり。不安に押しつぶされそうになる。

 姉ちゃんは馬鹿にしたけれど、実際にメキシコハナヤナギは消えてしまった。もし、泥棒の目的が金目の物を盗むことではなかったとしたら。例えば、その家の住民を困らせようとする愉快犯とか。そういった第三者がうちに入ったかもしれない。
 実害の大きさに関係なく、人の持つ悪意というものは恐ろしい。

 じっとしていたらそのことばかり考えてしまいそうだ。気を紛らわせるためにも体を動かそうと、庭へ出て水やりの準備を進める。
 ちょうど水の入ったじょうろを持ち上げたところで、何かが聞こえた。
 風が葉を擦る音ではなかった。

「あおい」

 もう一度、囁くようなその音―ー声は、俺の名前を呼んだ。
 姉ちゃんのものではない。聞きなれない、男の声。
 背筋が凍ったようにかたまって、手が震え始める。握っていたじょうろから、水が零れた。
 地面には、僕の影に重なるように大きな人影が伸びていた。  
 僕のすぐ背後に、誰かがいる。

「こっち向いて、あおい」

 少し低めの声が、もう一度僕の声を呼んだ。
 頭が真っ白になる。本能的に逃げ出そうとしたけれど、その場に転んで地面に顔を擦ってしまった。
 相手が一歩踏み出したようで、地面の影がそれに会わせて揺れる。恐怖で泣き出してしまいそうになり、ぐにゃりと自分の表情が歪んだのがわかる。

 しかし、それから影はぴくりとも動かなくなった。黙って僕のことを見下ろしているようだった。
 沈黙をとても長く感じて、絶えられなくなる。様子を伺うように、恐る恐る、見上げてみた。

「なんで逃げるの」

 そこにいたのは、僕より少し大人に見えるくらいの青年だった。明るい茶色の髪の毛がふんわりと立てられていて、光に当たった部分がオレンジに光っている。少し長めの前髪は中央より少し右のあたりで分けられていて、そのすぐ下で、丸っぽい奥二重の瞳が、きょとんとしたように大きく開かれていた。
 青春ドラマでよく見るような、『いまどきの高校生』といった雰囲気が溢れ出ている。

「あおい、俺のことわからない? 覚えてない?」
「し、知らない」

 搾り出すようにそう言って首を振る。本当に覚えがなかった。
 彼は悲しそうに視線を落とした。それから、
「俺、ハナヤナギだよ。あおいが育ててくれたメキシコハナヤナギ」
 と、拗ねたように唇を突き出した。
 彼の言っていることがわからず、一瞬、頭の中が白くなる。
 それから少し間が空いて、「はぁ?」と僕の気の抜けた声が庭を抜けた。



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