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 腹が立つ腹が立つ腹が立つ。
 煮えくり返った男の思考はその体外にまで溢れ出ていたらしく、擦れ違った親子連れは彼の顔を見て体を小さくさせた。

 休日の真昼間に、なぜこの男――梶木聡介はこんなにも苛立っているのかというと、それは彼が実家に出向いたことが原因である。「久々に家に顔を見せに来なさい」と母親から連絡があったため嫌々ながらも帰省すれば、これでもかと嫌味のオンパレード。

『康介から聞いたわ。随分と汚いお部屋で暮らしてるんですってね。自己管理もできないなんて社会人失格よ。康介を見習いなさい』
 なんて小言が30分ほど続いたところで、聡介の額の血管がぶち切れた。
 何でわざわざ出向いてまでてめえの嫌味を聞かなきゃならねえんだ! と、怒鳴って実家を飛び出し、今だ彼の頭に登った血は下りてこない。


 元々、聡介とその両親の仲は、決して良好とは言いがたいものだった。
 脳外科医の父と麻酔科医の母の間に生まれた梶木家長男である聡介は、忙しい両親に代わり、ベビーシッターによって育てられた。次男の康介が生まれたことをきっかけに母親は仕事を辞めたが、赤ん坊の育児で手一杯で、結局聡介の世話はお手伝いさんに頼りっぱなし。そんなわけで、幼い聡介の中で「家族」という存在は希薄なものになってしまった。
 そんな状態で聡介はすくすく育ち、若いお手伝いさんに初恋をして、あまつさえそのお手伝いさんにプロポーズするようなマセガキへと成長したのだが、それはまあ置いておいて。聡介が高校生になり進路選択が近づいてきたその時期に、彼と両親の間に大きな亀裂が入った。
 医者である両親は、至極当然のように自らの子供たちにもその職に就くことを望んでいた。けれど聡介は医者になりたいなど考えたこともない。進路について口論をするうちに、「今まで散々ほうっておいたくせに、今さら親ヅラすんじゃねえ!」と聡介の中に溜まっていた鬱憤が弾けた。
 この喧嘩以来両親は聡介のことを完全に放任するようになり、結果、彼は自分が選んだ大学に進んだ。大学に通う間にも親との仲は変わらず、ついには卒業とともに手切れ金のようにマンションを渡され、何年も顔も合わせず今に至る。
 ちなみに、聡介の弟はエリート大学の医学部に見事現役合格し、今や医者の卵から新人ドクターになろうとしている。

 そりゃあ、弟のほうがかわいいわな。
 聡介は煮えた頭の中で、どこか冷めたようにそう思った。彼ももう親のひいき目に対して恨み言うような歳ではない。が、今回に関しては話が別だ。わざわざ呼び出されてまで弟と天秤にかけられ、苛立ちは収まる気配もない。


 あれだ、こんなときは女で発散するしかねえ。軽くて、馬鹿で、後腐れのない女。
 聡介は携帯電話ののメモリーから適当な女を選ぶと、そのまま通話ボタンを押した。






「そーくん、久しぶりぃ」
 頭の弱そうな声を出す女を押しのけて聡介部屋に入り込む。背後で何やら文句を言う声が聞こえたが、彼はシカトをして物で溢れた狭いワンルームの真ん中に座り込んだ。

「てか、急にどうしたのぉ? 最近相手してくれてなかったじゃん」
「忙しかった」
「お仕事大変なんだねぇ。美菜、マッサージ得意だから、そーくんの腕もみもみしてあげる!」

 隣に座り込んだ女は、聡介の腕をとって指圧のまねごとをする。力が弱すぎて何の意味もない。加えて女のごてごてに飾られた長い爪が聡介の皮膚に食い込んでいる。

「おい、やめろ。爪が刺さってんだよ」
「え? あっ、ごめんねぇ」
「つーか、何だその重そうな爪は」
「かわいいっしょ? 今日サロン行ってきたんだぁ」

 女はそう言って、見せびらかすように自分の手をひらひらと揺らした。角度によってホログラムがぎらりと光り、その上に飾られたプラスチックのリボンやバラは見ていて重々しい。
 これがかわいいのか。下品の間違いだろ。そう思い聡介は眉間に浅くしわを寄せた。

「お前、それじゃ家のことなんて何も出来ねえだろ」
「できるよぅ! てか美菜、家事とかマジ得意だし! 料理とかマジうまいし!」
「何言ってんだお前」
「ほんとなんだって! なんなら、今からなんか作ってあげるよぉ」
「いらねえ」
「遠慮しなくていいよぅ」
「お前のその汚え爪使って作ったもんなんて食いたくねえんだよ」

 吐き捨てるように聡介がそう言うと、女の笑顔が強張った。そうして、ふっと彼女から表情が抜け、冷めた瞳が聡介を射抜く。

「汚いって、なに? 美菜、汚くないんだけど」
 先ほどまでの舌足らずな口調が、一瞬で機嫌の悪そうな低い声へと変わった。
 めんどくせえ。と聡介は内心で舌打ちをする。ストレス発散のために来たはずが、彼の苛立ちは増す一方だ。


「……帰る」
「はあ? 何しに来たの?」
「ヤりにきたけどだるいから帰る」

 滞在時間約15分。本当、何しに来たんだか。選ぶ相手間違ったな。今から別の女に連絡するのもめんどくせえ。……帰るか。
 という思考のもと、聡介はすっかり重くなった足で家路に着いた。



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「おかえり。遅かったな」

 ソファーでだらけながらテレビを見ていた直は、聡介が帰宅したことに気づいて顔を上げる。
 聡介はそんな直の姿を捉えて、腹の奥に溜まった空気を押し出すように息を吐いた。


「……なんか疲れた顔してんな」
「おう」
「風呂沸いてるから、入ってゆっくり休めよ」
「……明日シャワー浴びるからいい」
「いいから、ぬるくなる前に入っちゃえって。湯船のリフレッシュパワーなめんなよ」


 そう言って直が笑う。
 その表情を見ているうちに、聡介は棘立っていた自分の心が、少しずつ安らかになっていくのを感じた。それは奇妙な感覚だった。
 聡介はその不可解さに眉を寄せて首をひねる。

「梶木? どうかしたか?」
「……なんでもねえよ」

 聡介はぶっきらぼうにそう言って、心配そうな顔をした直の額を指で弾く。自身の異変については考えることをやめた。めんどくさかったからだ。
 脱衣所へと向かう聡介の背中越しに、「暴力反対!」と直の声が響いた。


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