そろそろ康介が戻るかという頃に、カラカラと音をたてて病室の扉が開いた。
 視線を向けると、そこに立っていたのは康介ではなく、パジャマ姿の母だった。

 
「来てたのね」

 彼女はつんと澄ました顔をしてふたりの傍を通り過ぎる。そのままベッドに乗り上げて枕元に背中を預けて足を伸ばした。
 お前が呼んだんだろうが。と力む聡介の横で、父はまた穏やかに笑っていた。

「ふたりきりにさせたほうがいいかな」
「いいのよ、そこにいて」
「わかった。それで、聡介に話があったんだろ」
「そうよ。……そうね」

 ふぅ、とひと呼吸置いて、母の視線が聡介に向けられる。身構えた聡介を見て、「お説教じゃないわよ」と彼女は目を細くした。



「母さんね、目が覚めて病院のベッドの上で目が覚めたとき、私は死ぬんだって思ったの」

 彼女は少し固い声でそう言った。何の話が始まるのかと気を張っていた聡介は、少しだけ拍子抜けした。
 わけもわからず病室に寝かされていたら、それくらい不安になってもおかしくないだろう。けれど、すでに検査も済ませて、その結果は母も知っているはずだ。

「……そんな大袈裟な病気じゃなかったんだろ。大丈夫だ」
 彼女は緩く首をふって、聡介の慰めを否定した。


「聡介や康介より先に、私は死んでしまうのだって、気付いたの」

 これまであなたたちに何を与えてきただろう。あなたたちに何を教えてきただろう。今になって、真剣にそんなことを考えたの。
 母の表情が苦しげなものに変わる。
 聡介は言葉が出てこなかった。母の口から滑り出てきた言葉が、少しずつ彼の頭に浸透して、ただただ戸惑いを感じていた。
 ベッドの上に佇むのは、聡介の知っている、勝気で口の悪い彼女ではない。初めて、ひとりの人間として聡介の目に映った。
 悩んで、傷ついて、これまで自分は苦しんできた。そうやって自分の中の憎しみにばかり目を向けて、母の感情は切り離したまま置き去りにしていたことに、ようやく聡介は気がついた。

 言っておくけれど。そう前置きして、彼女は厳しい顔を作る。
「これまでのことを謝るつもりなんかないわよ。私は私なりに、あなたたちとちゃんと向き合ってきた。でも、これからはもっと上手にやっていきたい。自分の理想や正しさを、ただ押し付けるんじゃなくて、ね」

 なんだか、母の姿がいつか見たときよりも小さく見えた。
 これまでのことを今すぐに水に流すなんてことはできないし、母も望んでいない。「これから」という未来を望んでいる。

 聡介は少し迷った末に、小さな声で呟いた。
「……退院したら連絡しろよ。実家のほうにも見舞いに行く」

 母は少し表情を緩ませ、父が優しく頷いた。



******


 聡介が病室を出ると、扉の側で壁に背をもたれている康介と目があった。彼の両手には汗のかいたペットボトルがひとつずつ握られていた。

「……帰るの」
「あぁ」
「出口まで、おくるよ」
「はぁ? いらねぇよ」

 そう突っぱねても引く様子はなく、聡介は小さくため息をつきながら、彼の隣に並んで同じように壁に背を預けた。

「なんか言いてぇことがあるならここで言え。聞いてやる」

 康介の片手からペットボトルを奪い、くるくると回して手持ち無沙汰を誤魔化す。ちらりと横目で見た康介は、心なしか赤らんだ顔をしていた。

「母さん、なんて言ってた」
「康介がマザコンすぎて恐いって」
「えっ」
「ばーか、嘘に決まってんだろ」

 聡介が喉を鳴らして笑うと、康介の顔がいっそう赤くなる。きょろきょろと視線を彷徨わせ、動揺しているようだった。

「兄さんの笑い顔、初めて見た……」
「そうか? ていうか前から思ってたけど、兄さんって呼び方、こそばゆい。せめて兄貴にしろ」
「わ、わかった」
「さっきから顔赤いぞ」
「なんでもないから!」

 康介が慌てたように話題を切り上げ、そういえば、と別な方向へと持っていく。

「ルームシェア始めたんだな。相手の人と会ったけど、綺麗な人だね」

 たそがれるような康介の声に、一瞬間が空いて頬が引きつる。
 綺麗な人、という形容に鳥肌がたった。

「綺麗とか、男に使う言葉じゃねぇだろ」
「でも、線の細い感じが−−」
「あいつ、色々と図太いぞ」

 聡介は直の顔を浮かべる。確かに整っていないことはないけれど、その程度だと思った。

「てか、ルームシェアじゃない。アレは住み込みの家政夫」
「家政夫……」
「お前が言ったんだろ、家政婦でも雇えって」

 聡介はそこまで話して、今晩も直が不在であることを思い出した。
 昨夜、彼は自宅の広さを持て余した。部屋の隅からじわじわと押し寄せる、静かな孤独に飲まれながらの食事。作り置きのそれは、そっけないような味がした。

 いつのまにか直の存在が染み馴染んでいたことを、思い知った。






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