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「あ、兄さん、こっち」

 こちらに気付いた康介は、イスから立ち上がり手を高くして自分を示した。
 聡介が小走りで駆け寄り、ふたりで並んで病院の奥のほうへと歩みを進める。

「母さんの体調はどうだ」
「降圧剤のおかげで血圧は安定はしてる。倒れたときに頭を打ったみたいで、色々と調べてみたら動脈解離が見つかったんだ。その治療のために、もうしばらくは入院しないといけないみたい」
「動脈解離……」

 不穏な単語の羅列から深刻な病気を連想して、聡介の表情は険しくなる。その変化に気付いた康介は「内服薬でよくなる程度だから大丈夫」と広角を上げて見せた。

「でも、本人はショックだったみたい。めっきり元気がなくなって……あ、ここだ」

 あっという間に病室まで辿り着き、扉の前で足を止める。
 壁にかけられたネームプレートには「梶木」とだけ記されており、一人部屋であることがわかった。
 聡介は気を引き締め、少し躊躇った末に扉を開けた。


 ベッドの上に母の姿はなく、代わりに、その傍で簡易イスに腰をかけている男の背中が目に映った。
 男はぐっと首をひねり、入り口で立ち止まっていた彼らに顔を向けた。

「来てくれたのか。残念だけど、母さんは今さっき先生に呼ばれて診察中だ」
「……父さん」

 聡介の呟きを聞いて、男はふっと柔く微笑んだ。ノンフレームの眼鏡の奥で、細まった目元にしわが寄る。たるんだ頬のせいか、鼻の脇から口角へとくっきりとした線が伸びている。
 正直なところ、聡介の記憶の中に父との思い出はほとんどなかった。彼は母以上に忙しい人で、弟が生まれてからもそれは落ち着くことはなかった。向かい合って食事をすることですら年に数えるほど。そんな貴重な記憶と照らし合わせて、老けたな、と心の中で呟いた。けれど、雰囲気はまったく変わっていないように思った。

 学生時代に進路でもめたとき、父とは声を張り上げて争うようなことはなかった。感情的になる母の後ろで、彼はじっと聡介を見据えていた。どちらに加担するでもなく、ふたりの言い合いに耳を傾け、聡介の口が過ぎればそっと母を庇った。
 −−なんだよ。結局、父さんもそっちの味方すんのかよ。
 矛先が自分へと向いても、父は決して感情を高ぶらせることはなかった。口数も少なく、どっしりとした態度でいつも構えていた。久しぶりに会っても、その雰囲気は揺るぎない。


 父は立ち上がり、ベッドの足元にひとつイスを置き、聡介に座るよう促した。

「康介、お前は飲み物でも買って来てくれるか」
「……わかった」

 病室で父と二人きりになり、聡介は気まずさを感じながらイスに腰をかけ、目を伏せた。


「今日は仕事は休みか?」
 静まった室内に、父の穏やかな声が響く。
 有給取った。と簡素に答えると、父もまた「そうか」と短い返事をした。

「飯、ちゃんと食ってるか」
 小さく頷くと、「そうか」と満足そうに笑う。
「うまくやっているようで安心したよ。何かあっても困らないようにと思ってあのマンションを買ったんだけど、これじゃあ必要なかったかもなぁ」

 むずむずとしたこそばゆい感覚を誤魔化すように、聡介は眉を寄せた。


「大きくなったなぁ。あんなに小さかったのに」
「……いつの話してんだよ」
「お前の小さい頃の話。小さくてかわいかったんだぞ。母さんなんか特にかわいがってた。自分より家政婦さんに懐いてるって言って嫉妬してのが懐かしいよ」

 はは、と小さく笑う父の声が、空気を和らげる。
 聡介は黙って彼の言葉に耳を傾けた。

「お前は覚えていないと思うけど、幼稚園のときに『大きくなったらパパとママみたいな
おいしゃさんになる』なんて言って、母さんを泣かせたこともあるんだぞ」

 もちろん聡介はそんなこと覚えていないし、想像もできなかった。あの気の強い母が、そんなことで泣くなんて。別の誰かの話をしているのではないかと思うくらい、聡介の中での人物像と食い違う。

「想像できないか?」

 正直に頷くと、父は歯を見せてくしゃりと笑った。





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