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 その日はいつもよりいくらか暑い日だったけれど、それ以外には平凡な平日のはずだった。
 梶木はいつも通り寝起きが悪いし、教授の声は相変わらず小さくて聞き取りづらいし、バイト先の客の入りもぼちぼち。
 けれど、少しだけ引っかかることがあった。店長が世間話の延長で、俺にこんなことを漏らしていたのだ。
『最近、店の外から中の様子を覗き込んでくる変な男がいるんだよ。しかも、結構な時間張り付いてる。店内には入ってこないんだけど、気味が悪いよ』
 
 ウチのパンが食いたいけど金がないのかもしれないっすよ、はははは。
 なんて返事で談笑した数時間後、その男の謎が解けることとなった。

 バイトが終わり挨拶を済ませ、裏口から店を出て正面へ周る。店は駅前の通りから少し小道に入ったところにあるため、人通りはそう多くない。ぱらぱらと、定時あがりのサラリーマンや、保育園帰りの親子が目に付く程度だ。
 俺も家路へと足を踏みだしたところで、ある男が前方に立ちふさがった。その男の顔を正面から見据え、一瞬、息が止まった。
 なぜここに、アイツがいるのか。
 背筋に冷たいものがつたう。
 よく思い出してみると、バイトの場所までは教えずとも、店名くらいは口に出したことがあった気がする。アイツはわざわざこの店を調べ上げ、俺が出てくるまで待っていたのだろうか。
 そう考えている間にも、アイツは二人の距離を徐々に近付けてくる。


「久しぶりだな、直」

 顔のよく見える距離まで来て、目の前の男はにやりと口元を歪めた。夕焼けに赤く染まったソイツの顔は、普段よりも怪しく見えた。
 この姿を見るのはいつぶりだろうか。ひどく懐かしく感じるが、実際のところ大した日数は空いていないはずだ。ここのところ色々な変化のせいで時間の経過を早く感じている。


「……バイト先で待ち伏せとか、気色悪いことすんじゃねえよ、麟太郎」
「でも、こうでもしなきゃ会えないだろ。メールも電話も拒否されてるから」

 そう言ってーー麟太郎は苦笑いを浮かべた。
 怒声を放ちながら人の家のドアを蹴りたくられた記憶は新しいが、今の彼はあの時と違って落ち着いて見える。ともあれ、二度と見たくないと思っていた顔を見て、良い感情を抱けるはずもなく。俺は露骨に顔を歪めながら麟太郎を睨み付けた。


「会う理由がねえだろ。お前とはもう別れた」
「直がそう言っているだけだ。俺は納得してない」
「納得も何も、原因を作ったのはお前だ。忘れたわけじゃねえだろ」
「別の奴と遊んでたこと? 直、嫉妬してんの? かわいい」

 ぶわっと、一瞬にして全身に鳥肌が広がる。気色が悪かったことに加えて、言葉の通じない恐ろしさがぞわぞわと俺の産毛を逆立たせた。
 一発殴ったら少しはこいつの思考回路もまともになるだろうか。いや、ならねぇな。
 浮かんだ考えを即座に切り捨てる。殴るだけ無駄だ。


「こういうときは逃げるにつきる!」

 くるりと麟太郎に背を向けて、勢いよく地面を蹴り飛ばす。数年ぶりの全力疾走。初っ端から左ふくらはぎの筋肉が変に突っ張ってタイムロスしてしまった。日頃の運動不足を恨む。
 追いかけて来なければいいな、という期待をこめてちらりと背後の様子を伺うと、案の定麟太郎は俺を追ってきていた。そりゃそうだ。逃げられたら追いかけたくなる。ということで、俺に残された道は「逃げ切る」一択のみ。

 横隔膜を引きつらせ喉の奥を熱くしながら、一心不乱に前へ前へと走る。俺の名を呼び続ける麟太郎の声は、次第に距離を縮めている。擦れ違う通行人は皆、ぎょっとした顔をで俺らの姿を見つめ、すぐに視線を逸らして見なかったことにする。誰も助けてくれそうにない。




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