放課後のチャイムと同時に参考書の詰まったカバンを肩にかける。下校する生徒の波に流されながら玄関ホールに向かう途中、職員室前の廊下で立ち止まった。
 進路決定状況の張られたコルクボード。短冊のような細長い紙に学校名と合格者数の報告が書かれており、一枚ずつ画鋲ではりつけられている。すでに地のコルクがほとんど見えないそのボードを、ぼんやりと眺めていた。

「もう大分埋まったなー」
 ぽん、と肩に手を置かれる。
 振り向くと、進路指導の先生がにんまりと笑っていた。

「ウチの学校は専門や短大行きがほとんどだから、指定校推薦でさっさと決める奴が多い。周りのことは気にしないほうが良いぞ。お前は国立狙いだったな」
「はい」
「センターに向けて頑張れよ」
「はい」

 頷く。頑張れよ、聞きなれたフレーズ。今日だけで何度言われたことか。
 言われなくても、頑張るよ。頑張ってるよ。
 ため息をこらえて、俺は耳に蓋をした。

『lessun16
 kind 親切な
 gentli 温和な
 tender 思いやりのある ……』




 歩き慣れた道を進むと、例のスーパーの辺りで彼の姿を見つけた。電柱に背をもたれていた彼は、こちらに気付いて1歩前へ出た。
 ひらひらと手を振りながら小走りで彼の元へ向かう。
「結構待ちましたよね。すみません」
「いや、今来たところだ」
 なんかこのやりとりデートっぽい。て、なに考えてんだ。
 イヤホンを耳からはずしてMPプレーヤーに巻きつけながら、浮かんだ想像を散らした。

「今日も夜まで予備校か?」
「授業はないんで自習室使おうかなって思ってたんですけど……そっちはバイトですか?」
「いや、今日は休みだから、そのまま帰るよ」

 じゃあ予備校前でお別れか。そんな距離、話していたらすぐだ。あっという間にこの時間が終わってしまう。

「俺も、このまま帰ろうかなぁ」
「自習室はいいのか?」
「自習は家でもできますし……それに、駅までのほうが、少し長く一緒にいられる」

 彼の横顔に笑いかけると、その耳が少し赤らむ。なんだか微笑ましい。完全に彼に対する恐怖心が消えている自分に気がついた。ていうか、可愛げすら感じている。二日で大分懐柔されてしまった。

 予備校の前を通り過ぎたあたりで、彼が「そういえば、ひとつ言おうと思ってたんだけど」とこちらに顔を向けた。

「音楽を聴きながら歩いている姿を見ていると、危なく思う。窘めているとかそういうことではなくて、心配なんだ。ただでさえ、疲れているときは反射神経が鈍るものだから」
「あぁ、英単語を聞いてるんです。ちょっとした時間でも、上手く活用しようと思って」
「そうだったのか。……余計なことを言ってすまなかった。気にしないでくれ」
「いえ、危ないのは最もです。片耳だけでなら、大丈夫ですよね。今度からはそうします。心配してくれて、ありがとう」

 それから俺が英語が苦手な話になり、模試の結果が散々だったことを告白する。 
 頑張ったつもりだったんですけど、なんておどけてみせると、彼はぐりぐりと俺の頭をなでた。

「受験は孤独で、自分との戦いだ。どれだけの努力を重ねても絶対なんてなくて、せめて後悔しないようにと闇雲に進むしかないんだから」

 俺は小さく頷いて同意した。
 彼の言うとおり、必ず報われることなんてない。それならば、「あれだけやって無理だったなら」と自分自身を認められるように、限界まで突き進むのが今の俺にとっての最善なのだ。それはわかっているし、実行しているつもりだ。

「闇雲に進むということは、自身の頑張りを否定し続けなければいけない。まだ足りない、まだだめだと。それはとても苦しいことだ。俺は直接力になれないけど、君の努力を知っている。自分の肯定する人間がいることをは、忘れないでいて欲しい」

 鋭くて恐いと感じていたはずの彼の眼差しから、包み込むような優しさが伝わってくる。暖かい感情が俺の胸に流れ込んできて、余裕のなかった心が底のほうから満たされていく。
 ふわふわと浮かび上がりそうな胸を押さえ、ありがとうございますと礼を言った。

「なんだか、俺のことばかりですみません。そっちの進路の話も聞きたいです」
「俺はもう決まってる。調理製菓専門へ進む」
「製菓!パティシエ!」
 お菓子を作れるというだけで俺にとっては感動ものなのに、それを職業にしようとしている人がこんな近くにいるなんて。パティシエとかになるんですかすごいすごいと興奮しすぎてアホみたいな感想しか言えなかったが、彼は嬉しそうに口元を緩めていた。

「調理系の職を目指しているけど、パティシエだとか具体的な目標はこれからなんだ。在学中に色々経験したい」
「そうなんですか……お店!お店出したら、絶対行きます!」
「ありがとう。そろそろ駅が近いな。忘れないうちに差し入れ渡しておく」
「えっ、えっ、わー! マカロンだ!」
「形はきれいじゃないけど、良かったら食べてくれ」
「全然きれいですよ! わー、すごい! 本当ありがとうございます!」

 俺がテンションを上げている間に、駅前まで辿り着いてしまった。
 予備校から駅まで延長したはずなのに、あっという間だった。
 名残惜しさを感じながら彼と向き合う。

「それじゃ……」
「お疲れさま。また、明日な」

 彼はぽんぽんと俺の肩をたたいてから、昨日と同じ方向へ歩いて行く。

 お疲れさま。労う言葉に彼らしさを感じた。
『俺は直接力になれないけれど』
 さきほど彼はそう言ったけれど、俺は彼の優しさから確かに力を貰っている。お菓子まで貰ってるし。俺は何も返せないのに、甘えてばかりだと、少し落ち込んだ。


 帰りの電車で、はたと気付く。
 ていうかまた連絡先聞くの忘れた。


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