「……お兄さん」
「なあに、安藤くん」
「俺、卵割ってボウルに入れて下さいってちゃんと言いましたよね…?」
「言いましたね」
「それがどうしたらこうなるんすか……殻も中身もぐっちゃぐちゃじゃないっすか…」
「安藤くんに頼まれたから張り切って片手でこなごなに割ったよ」

 ため息が聞こえる。わかってた。片手で卵を粉砕させて、大惨事になっているボウルの中を見ながら「あ、これ絶対ちがうな」って思ってたよ。でもふざけたわけじゃないから謝らない。

「あのねお兄さん、卵を割るって言うのはこういうこと」

 コンコンとボウルの端で卵を叩き、そこに出来た亀裂から殻は真っ二つにする安藤くん。時間にしてわずか三秒。鮮やか。
 なんやかんやでふたりでメシを食うのはこれで四度目になる。作るのはもっぱら安藤くんの役目だけど。彼との距離は始めの頃よりずっと縮んだ。知らないうちに安藤くんにお家探索されて、パンツ見られたりするくらいまで縮んだ。



「お兄さんって箱入りだったでしょ?」
 出来たばかりのほかほか親子丼に箸をつけつつ安藤くんが言う。

「箱入りってなに?」
「……すごく大事にされて育てられたってことですよ」
「へえ、安藤くんって物知りー」

 呆れの雰囲気を感じて笑いで乗り切る。実際、俺は大事にされていただろうか。親は金から逃れるため俺を捨てたが、それまでの日々で特別雑な扱いを受けたことはない。普通の家族だった気がする。では、俺を買ったあの男はどうだったろうか。大事にされていたかはわからないが、ただ泥のような優しさはあった。それに、俺は男のもとにいる間彼の屋敷から出ることを許されなかったから、箱に入れられていたという意味でその言葉は正しいのかもしれない。


「お兄さんってナゾの男っすよね」
「そんなことないよ」
「部屋もナゾ。DVDデッキはあるのにDVDがひとつもなかったりとかわけわかんねえっすわ」
「俺もよくわかんない。部屋に置いてあるのは基本的に貰い物だからさー」
「それにしたってエロ本の一冊くらいは隠しときましょうよ」

 俺が返事に困ったために間があく。黙って親子丼をかきこんでおいた。安藤くん、エロ本探してたんだ。とかなんとか考えてる間にも何やら安藤くんがもごもご言ってる。

「……あのさ、お兄さん」
「なに?」
「本当に彼女とかいないんすか?」
「いないって」
「……じゃあ、話変わりますけど、いつも俺と一緒にコンビニでバイトしてる女の子ってわかります?」

 女の子?女の子……なんとなく思い当たる。じろじろと俺のことを見てくるくせに目が合えば全力で逸す、あの彼女だろうか。

「……なんとなくはわかる」
「あー…じゃあ、率直に聞きますけど、彼女のことどう思いますか?」

 どう思いますかなんて聞かれたって困る。不思議に思い質問の意図を探れば、見えてくる答えはひとつ。
 おかしいとは思ってた。普通、コンビニで1度会っただけの人の家にあがりこみメシを食べるだろうか。流されてはみたものの、よくよく考えればありえない、と思う。
 でももしそれが俺に近付くための強引な手段だったら? 例えば“彼女”が俺に好意を寄せていて、安藤くんを通して俺に取り入ろうと考えていたとしたら? 納得がいく。
 冷めていく心に気付き、改めて俺は浮かれていたんだと知った。馬鹿みたいだ。ただの廃れた無職に構う人など、容姿につられる女だけだ。媚びることを知っているうちはまだ、下品な男も相手にしてくれるだろうか。


「……安藤くんってさ、おっぱいもんだことある?」
「話そらさないでくださいよ」
「そらしてないよ」
「……ありますけど」
「そっか。あのね、俺おっぱいもんだことないんだよね。おっぱいもませてくれるなら今度そのバイトの娘と呑んでみたいな」
「ふざけないでください」
「ふざけてないよ。いきなりそんなこと聞いてくるってことは、あっちは俺に気があるんでしょ? 今俺が言ったこと、彼女に伝えといてよ」

 にっこりと笑う。笑顔は俺の武器だった。しかしそれも過去の話、引き攣ってないだろうか。


「……ふざけんなっつってんだろ」
 聞いたことのない低い声。安藤くんの顔は恐いほど歪んでいた。

「……あいつは真面目にアンタのことが好きなんだよ……そういう風に、軽く扱うな」
「優しいんだね、安藤くん。彼女のこと好きなの?」


 瞬間、ぐわんぐわんと脳が揺れる。頬に熱が集まったところで自分が安藤くんに殴られたことに気付いた。
 安藤くんは無言で部屋を出て行った。

 酷いことを言った。これで俺は安藤くんに嫌われただろう。もう会うことはないだろう。思うことなんてない、もとに戻っただけ。

 涙が出たのは頬の痛みが酷いからだ。






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