それから


「しっかし、なんで狙った馬っちゅうのは3着くらいで落ち着いてしまうんやろかね」

 酔っ払った橋本先生は先ほどから同じ話を繰り返している。月曜日の夜は橋本先生に土日のレースの愚痴を聞かされるのがお決まりになってしまった。僕は競馬などしないから当たり障りのない返事以外できないのだけれど、彼は話し相手がいるだけで満足らしい。聞かされるほうは堪らないけれど。せめて僕も酔えたら良いのだけど、ノンアルコールビールではそれもかなわない。

 そんなわけで月曜日は橋本先生で潰れる。火曜日はあの子の部活が休みだから帰るタイミングが合わず、車で送ることができない。水木金も、生徒に面接指導や自己PR文の添削を頼まれたり、緊急の職員会議が開かれたり、教科担任同士の打ち合わせが入ったりと無作為に予定が入る。世の中そう甘くないということだろうか。

 僕と一緒に帰ることをあの子は楽しみにしてくれている。断りの連絡をする度に「仕方ないよね」と自分を押さえる彼に胸が痛んだ。





 明日の仕事に影響しないよう、橋本先生がへべれけになる前に飲み屋を出る。電車で帰る橋本先生を見送り、僕も車で家路についた。
 アパートに着き、ケータイの着信音が鳴る。すぐに確認すると、あの子からのメールだった。

『橋本先生なう?』

 思わず吹き出してしまう。

『家なう』
『橋本先生の競馬反省会は?』
『さっき終わったよ』
『おつかれさま』

 語尾に添えられた笑顔の絵文字が可愛らしい。どことなくあの子に似ている気がした。
 健気な子だと思う。彼と同年代の恋人達は人目を憚らずに戯れているというのに、僕と彼は人前で視線を合わせることすら満足に出来ない。それでも彼はわがままのひとつも言わずにいる。

 本当ならばひとりの教師として僕は彼の感情を否定してやるのが正しかったのだ。きっと彼は、尊敬や信頼というものを恋と混雑してしまっている。思春期にはよくあることだ。わかっていながら、彼を手放せずにいる。

 ――……先生が好きです。

 そう言って泣き出しそうに笑った彼の表情が、今でも鮮明に脳裏に浮かぶ。
 愛しいなんて、守りたいなんて、そんな綺麗な感情じゃないかもしれないけれど、抱きしめてあげたいとその時に思った。





『今日の授業の復習はした?』
『したよ』
『予習は?』
『した!』
『明日の準備は完璧?』
『いえす』
『今、電話して大丈夫?』
『おっけーおっけー』


 電話帳を開いてあの子に電話をかける。コール音がかかってすぐに通話中に切り替わった。

『もしもし』
「……出るの早いよ」
『へっへ〜」

 別に褒めていないのだけれど、誇らしげに笑う彼が可愛くて何も言えない。
 彼のやる事なす事の全てに癒されている気がする。彼を知る度に、彼に惹かれていく。

 彼が大人になって、感情に分別がつくほどになったら、今この時の記憶も彼にとっては価値のないごみのようなものになってしまうのだろうか。
 縋り付くような真似はしたくないけれど、それは流石に寂しい。

 大切にしなければいけない。今まで以上に、彼との一分一秒を。


『先生もうお風呂入った?』
「まだだよ」
『もう電話切ったほうがいい?』
「まだ大丈夫。もう少し君の声を聞いていたい」
『……先生なんか今日……いや、なんでもない』
「なに?」
『なんでもないってば! ただ俺今幸せだなあって思っただけ!』

 受話器の向こう側から、ほわほわとした笑い声が聞こえてくる。
 僕もだよ。言いかけた言葉は吐き出した息に紛れて消えた。


 もしも。もしも彼が大人になっても僕のことを変わらず好きでいてくれたら、そのときはきっと。


おわり