2、3日くらい花音の顔を見る為だけに病室を訪れた日があった。
フルタイムでバイトを掛け持ちしていたから、ゆっくり会える時間が無くて。

そして、ようやくバイトが落ち着いてきた頃、今日は久しぶりに一日中、一緒に過ごそうと思い病室へ行くと、ドアが開かなかった。


「花音、俺だ」


ドアの外から声を掛けると、病室の中から花音の足音が近付いてくる。
鍵を開ける音がして、自らドアを開けた。


「どうしたんだよ、鍵なんか......っ、」


目が合った刹那、乾いた音が病室に響いた。そして、花音から思い切り頬を叩かれたのだと気づき、ようやくヒリヒリした感覚が俺を襲った。

驚いた。花音がそんな事をすると思っていなかったから。こんな事初めてだ。何故、という疑問と

...すっげえ痛てえ、というそのふたつで俺の思考は停止する。


「冬獅郎、なにしてるの」

「いや、お前こそいきなり...「私はっ、冬獅郎のお荷物じゃないよ...っ!!」


棒立ちの俺に、花音はぼろぼろと涙を零しながら俺にぎゅっと抱き付いた。


「...私のせいで、冬獅郎の本来進むべき道を自分で閉ざさないで」


花音の華奢な背中に腕を回しながら、バイトが花音に知られたのだろうか、だとしたら何故という疑問だけが思考を支配した。


「...ちゃんとしてよ、冬獅郎」

「何がだよ」

「ちゃんと卒業の事考えて、進路も決められないなら、私のところに今後一切来ないで」


花音がこんなに怒っている姿を見るのは初めてだった。


「学校行かないでバイトなんてしないで。私の為だと言うなら、私は冬獅郎から何も受け取らない」


そして、こうして俺を突き放すような事を言う事も。今まで俺を自ら拒否することなんてなかったのだから。

俺はなにひとつ反論出来なかった。
結局は俺のエゴなのだから。

花音の体調を考えてベッドに寝かせると、


「ごめんね、私のせいで」


何度もそう言った。俺はそれがすごく辛かった。なんで、花音を泣かせてんだ、と。あんなに笑顔が見たいと言っていたのに。結局、俺にはそんな力無かったのか。


「...女の子が謝りに来たの」


それで、全て理解した。
花音のベッドの横にあるノートには、そいつの話した事が事細かく書いてたあった。きっと、忘れないようにと思って書いたのだろう。そして、そのノートには嘘偽り、誇張はなにひとつ無かった。


「これは、全部事実?」

「ああ、」

「...ホテルに誘われた話も?」

「.........ああ」


花音は大きな溜息をついた。
そして、俺の手を握る。


「冬獅郎が私のこと想ってくれているように、私だって冬獅郎のこと想ってるんだよ。...そう考えたら分かってくれる、よね?」


まるで、小さな子供の間違いを正すかのように俺を諭す。
...その考えは反則だ。そうしたら、なにひとつ俺は行動を起こせないのだから。自分のしなくてはいけない事くらい、自分が1番分かっているつもりだ。


「学校行かないでバイトするくらいなら、私に会いに来てくれた方がずーーーっと嬉しいのに」


そして、俺に今日初めての笑顔を向けた。
当たり前だ。分かってる。でも、俺の気持ちも理解して欲しいだなんて、俺の我儘なのだろうか。...そんな事、言えるわけないのだが。


「...悪かった」


花音の笑顔を見たら、花音の訴えを聞いたら、こう言うしかない。俺の行動の根底にあるのは花音の幸せ、それだけなのだから。花音の継続的に幸せだと感じてもらうには、毎日を共に過ごす事なのだろう。


「謝らないで。私こそ叩いてごめんね」

「すっげえ痛かったぞ」

「うん、だって本気で叩いたもん」

「てめえ...」

「こんなに怒れるほど、本気で好きだってことだよ」


きっと俺が同じ立場なら、花音と同じように、一緒にいる時間に最も幸福を感じるだろう。花音と同じように、自分の為にバイトなんてして欲しくないだろう。

...花音にウエディングドレスは絶対に着させる。しかし、花音に心配をさせずに、不安にさせずに、一緒に過ごす時間を減らさずに。ウエディングドレスを買うにはもう少し時間がかかるだろう。

でも、それまで花音は絶対に生きていてくれる。...そんな気がするんだ。
この事を忘れてしまっても。


「明日からは学校に行く」

「進路は?」

「それはまだ...「大学、ね」


いや、それは今更無理だ。でも、花音はそんな事を聞いてくれそうもない。


「冬獅郎は勉強が得意だから、大学に行って、それで...その得意な勉強で誰かの役に立てるような人になって」

「......ああ...、分かった」


花音は俺が迷わないように、俺に進む道を決めている。そうでもしないと、俺が崩れてしまうのが分かっているから。花音からの言葉しか聞き耳を持たない事も花音自身が1番分かっているから。
結局、俺は花音の思い通りになってしまうんだ。


「冬獅郎、」

「なんだ」

「ありがとう、...嬉しいよ、本当に」


花音、こちらこそありがとう。
今日も生きていてくれて
今日も笑っていてくれて
だから、明日もどうかそうであってくれ。
そうなら俺は幾らでも頑張れるのだから。


「...で、何の為にお金貯めてるの?」

「それは貯まったら教える」

「つまんなーい」


俺がウエディングドレスを買う頃には、
花音はきっとこんな会話をした事すら覚えていないだろう。でも、良いんだ。俺が覚えているから。
...この頬に残った痛みと共に。





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