時が経つのを遅く感じるようになった。
考えるのは過去の事ばかりになるようになった。
それは、毎日に変化がないから。未来を夢見る事は無くなったから。
それでも、具合だけは最高に悪い。

真っ白の病室で、ただ死を待つだけ。

花音の事はずっと考えている。
あの花音がよく俺の嘘に付き合ってくれたな、と。泣き付いてくるもんだと思ってたから。強くなったな。

高校時代の花音を最近よく思い出す。
泣き顔も見慣れたもんだ。あの頃がなければ、俺達はこうしてまた出会えなかっただろう。全てが奇跡に繋がっていったのだから。
一度失った全てを取り戻したんだ、未練なんかない。

...ただ、花音に婚約指輪を贈ってしまったのだけは後悔している。あの指輪が、花音を縛り続けてしまうだろうから。こんな状態になる前に気付いていたら、贈らなかったのにな。
左手に光るシルバーリングを見ながら、ため息をついた。


今日も天気は良い。
窓から見える景色が俺の世界になってしまった。
...なんとなく見ていると窓の外の木々がざわめきだした。
ついにお迎えか?なんて一人自嘲してみる。

廊下からパタパタと騒がしい足音が聞こえてきた。それは何故かどんどん近付いてくる。
...松本の奴、レポートの相談には乗らねえぞ。



「松本、廊下は...「ほんっとに馬鹿!!!」



それは、松本なんかではなく、肩で息をしている花音だった。


「ばか......冬獅郎のばか」

「.........花音」



愛おしかった。やっぱり、愛おしいんだ。
会いたくて会いたくて。
その姿もその表情その声も全てが俺の心を満たす。


「...辛かったでしょ?1人で」

「お前じゃねえんだから平気だ」

「もっと早く来れば良かったね...ごめんね寂しい思いさせて」


俺の手を握り、優しく話しかける。
俺から離れていったのに、俺から姿を眩ませたのに。花音はそんな事を言うんだ。


「知らないふりが正解だと思ってたけど、やっぱり違う。あの時、冬獅郎が側にいてくれた事が何よりも嬉しかったから...だから、私も冬獅郎に恩返ししなくちゃ」


花音の瞳は潤んでいた。でも、俺のために笑っていて。
俺は気怠い身体を起こして、花音の額に指を伸ばす。花音は何をされるのか分からないらしく、俺の方へ寄って来た。
そして、俺は渾身の力を込めて指で花音の額を弾いた。


「いっっったい!!ちょっと何するの?!」


赤くなった額に手を当て、痛みで涙を流す。
...こうでもしないと花音は涙を堪え続けるだろうから。


「俺はお前の笑顔が好きだ。でも泣き顔だって好きだ。...だから、我慢すんな」

「冬獅郎ってさ...、ほんとずるいよ...。もう...っ、」


花音は泣いた。それは自分の為ではなく、俺の為に。俺に隠していた涙を流した。「なんで私が冬獅郎に慰められなきゃなんないの...」と言いながら。


「冬獅郎のためじゃないから」

「...は?」

「私が冬獅郎と一緒にいるのは私の為。私が幸せになるためだから、ね」

「......そうかそうか、なら勝手にしろ」


久々に心から笑みが零れた。
花音の馬鹿みたいな嘘に。花音は俺の嘘を分かって、俺の考えていた事を分かってこんな事を言っているんだから。


「だから、冬獅郎の時間を私に下さい」





今ひとときの猶予を




満面の笑みで俺の目の前に置いたのは、汚い字で書かれたくしゃくしゃの婚姻届。
空欄は俺の記入欄だけ。



「...お前、俺もうすぐ死ぬぞ」

「冬獅郎の為じゃないって言ってるでしょ?私の我儘に付き合って。...いつもみたいに」



俺の欲しかった物が全て手に入ってしまう瞬間だった。花音の全てが。
俺たちは、きっと悲しみ以上に幸せの方が多いのだろう。

何度、花音を愛おしいと思えば良いのだろうか。何度、花音に恋をすれば良いのだろう。

明日どうなっても良い。
明後日どうなっても良い。
だから、今花音といる時だけは、この瞬間だけはこのままの俺でいさせてくれ。
花音に触れられる俺のままで。花音となんでもない会話が出来る俺のままで。



「ひとつ、約束して。」

「何だ」

「死ぬだなんて絶対言わないで。思わないで」

「.........」

「冬獅郎が私に言った言葉だよ」



そしてまた、花音は屈託のない笑顔を俺に向けるんだ。







しおりを挟む